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準備書面(1)

平成19年(ワ)第24676号 国等に対する損害賠償請求事件

被 告  国 外5名


準 備 書 面(1)


2007年11月9日

東京地方裁判所民事第24部合議C係 御中

第1回口頭弁論にあたって

一、公正・中立及び適正な訴訟進行

日本国憲法76条3項に「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」とある。また、憲法31条には、適正手続きを行なうように要請している。つまり、裁判長らは、憲法の理念及び原理に則り、本件裁判において、公正・中立及び適正な訴訟進行を行なう責務を課せられている。しかも憲法及び法律の解釈、判断を行なう場合においても、勝手な解釈、判断を行ってはならず、憲法及び法律が制定された歴史的経過及び歴史的経過に基づく立法の趣旨から外れる解釈、判断を行ってはならないことはいうまでもない。

しかしながら司法の長である最高裁長官は、内閣の指名に基いて、天皇がこれを任命し、他の裁判官は内閣が任命するがゆえに、司法は、行政府寄りの解釈、判断が顕著となり、司法に対する人々の信頼が著しく失われている。現に原告らはこの数年の間に4つの裁判を提訴し、多くの甲号証、準備書面をもって被告(行政府)の不法行為を明らかにしたが、裁判官が行政府を勝訴させる意図をもち、被告らにまともな反論さえ求めず、原告に悪意をもった偏頗な裁判を行った経験をもっている。さらにそれらの裁判官に対して忌避申し立てを行ったが、裁判官が裁判官を裁くという制度自体、身内をかばう不公正さを持つ。主権者から見れば誰が見ても正当な忌避申し立てであるにもかかわらず、司法の行政府をかばう体質により、それらが認められることはなかった。

われわれの裁判はマスメディアからは無視同然の扱いを受けているが、心ある記者は報道しようと努力してくれているし、オルタナティヴ・メディアを使い、人民の中に浸透しつつある。その証拠に、原告数が増加しており、このような裁判を主権実現の手段として行っている実践例として記載する本も出版された【甲第18号証 『裁判が日本を変える!』P.170~174】。今や、人民は腐りはてた司法に対し、怒りをもって立ち上がろうとしているのである。裁判所としては、失われた信頼を取り戻すためには、公正・中立な裁判を積み重ねる外はない。よって、本件の審理において公正・中立及び適正な訴訟の進行を強く求める。

二、開かれた裁判

日本国憲法82条において裁判の公開法廷を定めている。この公開法廷の審理の中に、公正な裁判の保障を発見するという現代法の理念を具現している。さらに、公正な裁判を保障し具現化を図るためには、単に法廷を公開するとの表面的な措置だけでなく、訴訟行為全般にその理念を反映させる措置を行なう必要がある。このような措置によって、法廷はより開かれた空間となり、公正な裁判の制度的保障が高まるのである。

現在、傍聴人は発言は無論、拍手も禁じられ、裁判に参加することは認められていないが、公開法廷と定めている以上、主権者である傍聴人も裁判に参加する権利がある。拍手などは認められるべきであるし、今後、傍聴人が意見を言っていくような制度も整備されるべきである。

三、口頭弁論主義の徹底

日本の訴訟制度は、口頭弁論主義を採用している。しかしながら現実は、書面主義的傾向が強く、口頭弁論主義は形骸化している。例えばそのことによって、法廷での審理が傍聴者には理解しにくい状態になっていて、傍聴者の存在は、実体上無視されている。それでは、真に法廷が人々に開かれたものとはならない。書面の提出、授受の確認のみでなく本来の口頭弁論を行うことによって、傍聴者にも解りやすい審理となるであろう。そのことによって司法に対する人々の信頼は高まり、人々に親しみやすい裁判所となるのである。以上のような理由からも本件における法廷は、本来の口頭弁論主義を徹底して行なうように強く求める。

四、録音テープの録音と公開

東京地裁では、一般の法廷では審議を録音していないそうである。しかし、これでは「言った」「言わない」の議論になった時に、どちらが正しいのかを判断することができない。実際、われわれの行ってきた裁判でも裁判長が聞こえない声で口頭弁論の終結を告げるという事態が起こり、それを書記官が聞こえたとして口頭弁論を終結したことにされてしまった。その裁判では裁判長は「閉廷」も告げなかった。われわれはそれに対して異議を申し立て、忌避も行ったが、録音テープがないため証拠がなく、傍聴人に証人になっていただいた。

忌避を行う場合、訴訟指揮に対する論難は理由にならないというのが現在の司法の判断であるが、原告に悪意を持った、行政に加担する訴訟指揮を放置しておくことは、憲法に定められた国民が裁判を受ける権利を裁判所自らが奪っているに等しい。しかしどのような訴訟指揮が行われたのかは、現在は録音していないため証拠がなく、裁判所は自ら証拠隠滅を図っているとしか思えないのである。このようなことを言われたくないなら、裁判所は堂々と審理を録音し、そのテープを公開すべきである。

五、口頭弁論調書に審理の内容がわかる記載を

現在の口頭弁論調書は数行で終わるもので裁判のプログラムに過ぎず、審理の中身が何も書かれていない。後でこれを読んでも、その期日に何がどう話し合われたのかは全くわからない。裁判の公式記録は口頭弁論調書のみなのであるから、こんな調書では不十分このうえない。この裁判では記録としてその期日に行われた審理の内容がきちんと伝わる口頭弁論調書を要求する。

結語

第1回口頭弁論にあたり、司法に最も求められかつ必要である裁判の公正、中立さと合わせて、開かれた法廷の具現化のために、本件を担当する裁判長らに以下のことを実施することを要望する。

1. 書面の提出、授受の確認だけではなく、意見陳述の時間をとること。
2. 傍聴人の拍手を認めること。
3. 口頭弁論で行われた審理の内容をきちんと残すために、口頭弁論を録音し、そのテープを公開すること。
4. 口頭弁論調書はプログラムではなく、口頭弁論の記録であるから、何がどう話し合われたのかが伝わる内容を記載すること。また、公正性、正確性の確保のために、原告・被告・裁判所三者による合意の上で口頭弁論調書を作成すること。

以上
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by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:53 | 第1審(東京地裁)の記録

準備書面(2)

平成19年(ワ)第24676号 国等に対する損害賠償請求事件

被 告  国 外5名   

準 備 書 面(2)

2007年11月9日

東京地方裁判所民事第24部合議C係 御中

民事訴訟法243条の尊重

要請事項

裁判所による真実究明義務と当事者への平等取り扱い義務の履行

本件の第一回口頭弁論に向けて、原告らは、裁判官らに対し、民事訴訟法243条「裁判所は、訴訟が裁判をするのに熟したときは、終局判決をする」の尊重を求める。

本件において、原告は教育基本法の改定事項がいくつもの憲法違反を犯しており、また、やらせタウンミーティングによる改定教育基本法の成立過程は国家犯罪であるなど、重大な問題を提起している。

国会議員である被告らは、主権者であり納税者である原告らの訴え及び問題提起に対し、誠実に答弁あるいは反論する義務があるのであり、裁判官は、判決を下すためには、裁判をするのに熟すまで待たなければならないし、熟すことを妨げる事由がある場合には、妨げる事由を取り除き、裁判を熟させるべく衡平に訴訟を導くことが義務であると考える。

以下に、その義務がある事由を述べる。もし、以下の解釈が間違っているのであれば、本法廷において、原告の解釈が間違っていることを指摘していただきたい。

一、裁判所による民訴法243条の取扱いの客観的基準とは

民訴法243条は、1項で、裁判所は訴訟が裁判をするのに熟したときは、終局裁判をする、と規定している。

主語が、「裁判所は」となっているので、裁判所が熟したと判断すれば、いつでも終局裁判ができるかのような錯覚が生じる。しかし、そうではない。客観的に「熟した」時が必要なのである。
しかも、客観的に訴訟が熟したといえるためには、次のような前提条件を裁判所がクリアーしていることが必要である。

1、裁判所による真実究明義務の全う

⑴ 訴訟が客観的にみて「熟した」といえるためには、裁判所が真実究明義務を全うしたことが必要である。
⑵ 現行行政事件訴訟法(以下「行訴法」という)では、民事訴訟を支配する弁論主義を基調としている。
「行訴法には職権証拠調べの規定(24条)はあるが、弁論主義の下では、せいぜい釈明権行使の端緒を与えるにすぎず、また、民訴法による文書送付嘱託や文書提出命令も、いきおい微温的なものにとどまらざるを得ない。

このような行政訴訟における主張・立証の困難性が、訴訟の提起をためらわせ、訴訟の追行を困難にするとともに、裁判の遅延を招いていることは、間違いないところである。」(「紛争の行政解決手法」南博方著、有斐閣、62~63頁)といわれているのである。

それどころか、このような行政訴訟における原告側の不利を逆手に取って、現実には、「裁判の遅延」よりも、極度の門前払い裁判が横行しているのである。

⑶ 「諸外国においては、訴えの提起と同時に原処分関係一件記録を裁判所へ送付させ(ドイツ財政裁判法71条2項)、裁判所の釈明義務を明定し(ドイツ行政裁判法86条3項)、関係人の主張及び証拠の申出に拘束されることなく職権による証拠調べができるものとし(同法同条1項)、あるいは、文書提出命令の根拠を定めて(同法99条1項)、当事者間の不衡平の平準化を図るとともに、形式的真実発見に甘んずることなく、できるだけ実体的真実発見の理想に近接することを目指しているのである。」(前同63頁)とされている。

⑷ 日本の遅れた行訴法では、諸外国で当然の事とされている裁判所による、⒜原処分関係一件書類の送付要求、⒝裁判所の釈明義務、⒞職権による証拠調べ、⒟文書提出命令、⒠当事者間の不衡平の平準化、⒡形式的真実発見に甘んずることなく、実体的真実発見を究明するための規定が無い。

しかし、⒜ないし⒡は、行政訴訟が裁判であるための当然の規定であり、憲法で裁判を受ける権利を保障(憲法32条)された国民は、当然に享受すべきである。

⑸ 従って、裁判所が真実究明義務を全うしていない限り、訴訟が客観的にみて「熟した」とはいえないのである。

2、裁判所による当事者の平等取扱義務の履行

⑴ 日本の行政法には、前記第1の⑷の⒠の、当事者間の不衡平の平準化のための規定が無い。しかし、裁判である以上、当事者間が衡平であることは当然のことであり、憲法上も平等原則が保障されている(憲法14条)のである。

⑵ 従って、裁判所は、訴訟指揮権の行使により、不衡平の平準化を図り、適切な釈明等により、当事者の不衡平を平準化する義務がある。これをせずに訴訟が「熟した」とはいえないのである。まして、不衡平により、行政機関側が何もしないことをよいことに、結審をして門前払い判決をするということは、当事者の平等取扱い義務の不履行で、未だ訴訟が「熟した」といえず、結審すること自体、審理不尽となるのである。

3、裁判所の説明責任の履行

⑴ 裁判官も国民の厳粛な信託により(憲法前文)、国民に選出された公務員(憲法15条1項)として、国民の納得のいく裁判をする義務がある。

⑵ 国民の納得を得る方法の一つが、説明責任を尽くすことである。

⑶ 訴訟が熟したか否かとの関係で、説明責任が問題となる場面が二つ考えられる。

㈠ 一つは、当事者の申請した証拠調べを全て終了し、主張の追加も無く、何人が見ても客観的にみて、訴訟が「熟した」といえる場合である。
この場合、裁判所に訴訟が「熟した」か否かについて説明責任が発生することは無いといってよいであろう。

㈡ 二つ目は、ところが、裁判所が実体的真実発見の義務を怠り、当事者間の不衡平の平準化をする義務も放棄して、いわゆる門前払いの判決をしようとして結審する場合の訴訟が「熟した」か否かについて、説明責任が発生する場合である。
この場合、裁判所は、なぜ実体的真実発見をしなくてもよいのか、なぜ当事者間の不衡平の平準化の努力をしなくてもよいのかについて、当事者を納得させる説明責任が生ずることはいうまでもない。
この場合、説明責任を履行したが、当事者の納得が得られない場合は、訴訟を続行して実体的真実発見の究明と、当事者間の不衡平の平準化を図った訴訟指揮による裁判をする以外にない。

⑷ 説明責任が生じたのに、全く説明責任を履行しない場合や、説明責任を履行したが当事者の納得が得られないのにその後の努力をしない場合は、裁判官自体が忌避されることを受忍していると理解する以外に無い。裁判官が当該裁判をすること自体を放棄したと見做されても仕方が無いのである。

4、結論

以上のように、民訴法243条は、裁判の本質と密接に関連した深遠な内容を含んだ含蓄のある規定であると理解しなければならないのである。よって、本件の担当裁判官は、民訴法243条が求めている裁判をするために、真実究明と当事者の平等取扱いの義務を全うしなければならない。

二、民訴法243条を尊重した本件裁判における終結のあり方と、訴訟指揮

前述してきたように、裁判官は、民訴法243条が規定する裁判をするために、真実究明と当事者の平等取扱いの義務を全うしなければならない。原告らは、本件裁判官が民訴法243条が規定する裁判を行うならば、原告らが提起する問題について、被告の釈明・反論なしに、本件が終結することはあり得ないと、信ずるものである。

また、原告らは、別途書面にて証人喚問の申請及び被告らが所持する「やらせタウンミーティング」で謝礼を支払った者の名簿や、やらせ質問を依頼する書面などの証拠保全の申立てをしている。さらに、被告側に当事者照会による証拠開示の要請をしている。

これらについても、裁判官らが、当事者の平等取扱いの義務を履行し、証人喚問・証拠保全・証拠開示を促し真実究明の道を拓く方向に指揮することを期待し、要請するものである。

また、真実究明を全うし衡平な終結を迎えるために、原告らは、裁判官が、原告らの求める争点について被告らが誠実に答えるよう訴訟指揮を執ることを求める。原告らが争点にしていないことを尋ねるのは構わないが、必ず原告らが問題にしていることにも、被告らが答えるよう指揮することを失念しないでいただきたいと要請する。
 
三、民訴法243条が規定する裁判が行われない場合
 
本来、一、二に述べてきたことは、裁判官であれば当然心得ていることであるが、本件の原告らの中には、行政裁判を経験してきた者もおり、時に、裁判官による真実究明努力のないまま、あるいは当事者の平等取扱いを受けぬまま終結とされてきた経験をもつ者が少なくない。

例えば、原告らの中には、杉並区での「つくる会」教科書採択の取消しをめぐって、前総理大臣・安倍晋三を訴えた裁判と杉並区と杉並区長を訴えた住民訴訟の二つの裁判の原告が存在するが、それらの裁判において、いずれも原告らの納得のいかない終結を経験している。原告らはこれらの裁判の裁判官らについて裁判官忌避申立を行い、現在、最高裁での審理が進行中である。
 
本件の場合も、民訴法243条の規定に反した裁判が進行していると認められた場合、原告らは、裁判官らの訴訟指揮は、民訴法24条にいう裁判の公正を妨げる事情に該当すると判断し、裁判官忌避申立に踏み切ることを躊躇しないものである。

結語

以上の背景には、原告らが裁判を経験してきた中でもたざるを得なかった裁判官への不信がある。

民訴法243条にいう「裁判の熟したとき」とは、「裁判官のみの判断で認める、熟したとき」ではなく、「裁判官はもとより当事者双方が認める、熟したとき」である。現状の行政訴訟では、原告らが「熟していない」と判断しているにも関わらず、裁判官と行政側のみが「裁判が熟した」と判断し終局を宣言するケースがあまりにも多い。このような終局は、あからさまな原告らの訴えの無化であり、明らかに憲法32条 「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」に違反する。

また、証拠開示制度が存在しないことが、行政訴訟における衡平を実現する上で著しい問題である以上、終局宣言時には公正な審理が行われたことが誰の目にも明らかでなければならない。

そのために裁判官は、証拠開示に積極的に取り組み、当事者間の衡平につとめ、真実究明の姿勢を示さなければならない。証拠開示に消極的で、当事者間の衡平につとめず、真実究明の姿勢に乏しい裁判官は、実質的に裁判を受ける権利を原告から奪うものであり、このような裁判官は、忌避を免れないことは明白である。

原告らは、裁判官らに対し、とくに原告らを優遇してくれと頼んでいるわけではない。憲法76条3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」に定められた裁判官の姿を、主権者に示してほしいと願うものである。
原告は、本件裁判官が民訴法243条にいう裁判を行うならば、原告が提起する諸問題(争点)について、行政側の釈明・反論なしに、真実究明はなく、それゆえ本件が終結することはあり得ないと、信ずるものである。原告は、日本国憲法を拠りどころとする司法には、何人の目にも明らかな公正さをつかさどり、真実を究明する力があると信ずるものである。本件を担当する裁判官に良識と良心が残っていることを期待し、結びとする。

以上
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by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:50 | 第1審(東京地裁)の記録

準備書面(3)

平成19年(ワ)第24676号 国等に対する損害賠償請求事件

被 告  国 外5名

準 備 書 面(3)

2007年11月9日

東京地方裁判所民事第24部合議C係 御中

 
2006年「改正」教育基本法の違憲性について


1.最高裁判所は抽象的憲法判断をなしうる憲法裁判所としての性格も持っていることの確認

裁判官の方々にまず確認したいこと、要求したいことがあります。

日本の裁判は判例法主義に基づかないので過去の最高裁判決に必要以上に縛られることはありませんが、まず、抽象的憲法判断に基づく違憲立法審査権を裁判所が積極的に行使しない一因である1952年10月8日の「警察予備隊訴訟判決」の無効を確認します。わたしは現行制度で裁判所は抽象的憲法判断をすることができると考えます。裁判所が違憲立法審査権を用いなければ、行政府・立法府の暴走に誰も歯止めをかけられません。そして安倍政権の下で、正に数々の強行採決が行われ、憲法違反の疑いのある法律が成立したのでした。
  
上記判決は、最高裁判所は司法裁判所としての性格のみを持つことを、「司法裁判所だから司法裁判所なのだ」という同語反復の論法によって定義づけしており、説得力を欠いています(訴状20-23頁)。また、最高裁自身が最高裁の性格を定義づけられるのかという問題も残ります。最高裁が司法裁判所なのか憲法裁判所なのか、それとも双方の性格を併せ持つのかという判断は、その点に疑義がある限り当事者・最高裁は定めることができません。むしろ主権者である国民が決めなくてはなりません(憲法前文)。具体的には、最高裁の位置づけを一つの争点として国政選挙を行い、その際選ばれた国会議員によって、国権の最高決議機関である国会(憲法41条)において決議されるべきです。そして最高裁の性格付けは下級審全てにおいても当てはまることは言うまでもありません。

具体的争訟性を要求する司法裁判所型の米国でも、「訴えの利益」を広く認めていこうという傾向、抽象的な違憲審査に近いような機能も見られます。逆に抽象的な憲法判断をするべく設置された憲法裁判所を持つドイツにおいては、憲法裁判所における八割から九割が「憲法訴額/憲法異議」の事件であり、個人の権利侵害を前提にする違憲審査となっています。つまり私権保障か憲法保障かという二類型の間は世界的には縮まっており、「合一化」傾向にあるのです【甲13号証 芦部信喜『憲法判例を読む』15-18頁。甲14号証 伊藤真『伊藤真の憲法入門』202-206頁】。

憲法裁判所を持たない日本において、抽象的憲法判断の典型例である違憲立法審査権が行使しにくい状況・憲法を使いこなせない状況は、民主主義にとり危機的な状況・主権者の権利が制約させられている状況です。どうか憲法81条にのっとり違憲立法審査権を行使してください。また、上記判決は、最高裁の事務能力の許容量を超える提訴の数が予想されることも抽象的憲法判断を行わない理由として述べています(訴状21頁)。裁判官の数量不足に関しては同情に値しますし、別の形で主権者がその問題について取り組まなくてはなりません。しかしそれは裁判所が憲法を遵守しないことの理由にはなりません。

このことから、損害請求額が10円という安価なものである意味が分かります。裁判所が自らを司法裁判所的性格のみ強調して定義することに対して、わたしたち主権者はやむをえない「非常手段」として具体的賠償を掲げているのです。ですから、この10円には象徴的な意味が込められています。「早く、抽象的憲法判断をしてほしい」という要求と、「わたしたちが受けた損害・国家的損失はお金などでは到底現すことができない巨大なものである」という主張です。決して「10円程度の被害ならば提訴すべきでない」などと安易に判断されるべき類の問題ではないのです。

日本国憲法の解釈としては司法消極主義を採る学説が有力です。確かに民主主義の過程で立法府の誤りが矯正されることが期待される場合はそれでも構いません。しかし、精神的自由の規制の合憲性を審査する際は、司法積極主義が適切です。民主主義の過程そのものを危うくするような規制については、裁判所は積極的に介入して回復すべきなのです【甲15号証 伊藤真前掲書208-210頁】。なぜなら、裁判所だけに違憲立法審査権が主権者から委託されているからです。47年版教育基本法から06年版への改訂は、後述するように、まさにこの主権者の精神的自由の規制に関わることがらです。

2.「改正」教育基本法の違憲性の確認

次に被告らの行為の違憲性について申し上げます。わたしは特に、47年版と06年版両教育基本法の比較を通して、後者の違憲性を立証します。

2006年に改訂された教育基本法は、日本国憲法との不整合がはなはだしいものです。憲法価値を認めていないために、この法律は内容面において違憲です。この点において、人権思想や立憲民主主義といった普遍的価値に関して、憲法と完全に合致していた準憲法たる1947年教育基本法と内容を異にします。

たとえば、47年版教基法が前文において憲法との一体性を明記していたにもかかわらず、その文言を削除しました(「日本国憲法…の理想の実現は、根本において教育の力にまつ」)。また「個人の尊厳を重んじ」という憲法13条と呼応している文言を、それ以降の文言を変えることによって、その意義を薄めています。06年版では、「個人の尊厳」は後続の「真理と正義の希求」、「公共の精神の尊重」と並列の関係に成り下がっています。ここで、公共の精神の尊重と、伝統の継承とが付加されていることは重要です。総じて、06年版は、国家のための個人という考え方を強調しています。この改訂が復古調を帯びていること、すなわち明治憲法・教育勅語体制、すなわち天皇制軍国主義国家体制を指向していることは明らかです。

憲法26条にあるように、全ての個人に無条件に教育を受ける権利があるはずなのに、06年版は国家権力に有為な人格を形成するための教育を指向しています(06年版1条)。教育の目的において、「自主的な精神」を削除し、「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた…国民の育成」と付加改訂されていることが、それを示します。個人よりも国家という強調点のずらしが見て取れます。

憲法19・20条は個人の人権の核として、良心・思想・信条の自由を謳っています。これらの内心の自由の保障は、明治憲法下での天皇制軍国主義国家による思想統制への反省として、明治憲法下でその保障が不十分であった人権を明記するために定められた条文です。ところがこの歴史的経緯と内心の自由の重要性を無視して、06年教基法は第2条5項で「わが国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」をはじめ、多くの態度を養うことを目標として新設し(「真理を求める態度」「勤労を重んずる態度」「社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」「環境の保全に寄与する態度」)、ある特定の価値観を主権者に強制しようとしています。被告らは日本国憲法の立法趣旨を踏みにじっています。

旭川学力テスト最高裁判決にわたしは賛同します。「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことは許されない」(訴状11頁)。まさに、06年版教基法に基づいて国家的介入による不当な支配、その結果の「愛国心植え付け」が行われることは、子どもたちへの人権侵害です。

さらなる憲法違反ないしは立憲主義に対する冒涜は06年版16条です。47年版10条は、国家権力による介入を主権者の権利として防ぐための規定でした。準憲法であるからこそ、国家権力の暴走に歯止めをかける道具としての決まりが47年版には明記されていたのです(立憲主義)。ところが06年版は教育行政が、主権者への責任を軽視して何でも行えるという趣旨の規定になっています。同じ文言である「教育は、不当な支配に服することなく」を用いながら、それ以降を改訂することによって、本来の立法趣旨と全く反対の帰結を巧妙に導いていることが分かります。すなわち、「この法及び他の法律の定めるところにより行われる」が加えられた結果、47年版10条の意図が逆転して、「教育は教育行政が支配する」ことになってしまったのです。被告らによる同種の手法は、前文の「個人の尊厳を重んじ」以降の改訂においても確認されています。

3.被告らの憲法破壊行為の確認

憲法99条により国会議員である被告らには憲法を遵守する義務があります。にもかかわらず、上述のような内容面における違憲性が明らかな法律をそれと知りながら強引に成立させたことは、被告らの立憲主義軽視に基づく違憲行為です。この法律の成立によって、原告のみならず日本に住む者たちは金員では現せないほどの大きな損害を被りました。「立法府において多数を占めていれば違憲立法をしても良い」という誤った指針を、悪しき前例として大々的に宣伝したのです。立憲民主主義が冒涜されました。

日本の戦後教育は戦後すぐから右傾化が始まり【甲16号証 海後勝雄ほか『戦後教育の功罪』6-24、73―90、213―246頁】、時代が進むにつれて47年版教育基本法の精神からますます離れていき、47年版は骨抜きにされた状況となっていました。文科省や政府が教育の荒廃は47年版、ひいては日本国憲法のせいであると主張していましたが、これは全く逆で、47年版が骨抜きにされるにつれて教育の荒廃が進んできたのです【甲17号証 高嶋伸欣ほか『教育基本法「改正」のここが問題】。47年版がかろうじて持っていた最後の歯止めをなくした結果、06年版に基づく教育3法がすでに成立しています。これからの教育はますます反民主的な方向に進んでいくことになるでしょう。個の尊重を基礎にする人権教育の普及は、ただでさえ諸外国の中で遅れているのに、被告らの違憲行為によりさらに遅れることは明らかです。

わたしは憲法51条に定められた国会議員の院内における「免責特権」を、本訴が侵しているとは考えません。免責特権は、たとえば地元選挙民の利益などに縛られずに、国民全体の益となる発言を国会議員が自由にできるようにするための規定です。つまり国全体の益とならないことをした国会議員の場合には免責特権は適用されません。上述のように、被告らは国家的損失を引き起こしたのですから、免責されません。また、基本的人権の侵害を行う場合にも免責特権が適用されないことは定説となっています(訴状30-31頁)。上述のように、被告らは人権侵害を公教育において、公教育によって行ってよいという法律を成立させたのですから、免責されません。ましてや、憲法違反の行為を(憲法13条・19条・20条・26条などに抵触)、同じ憲法(憲法51条)が認めることは到底ありえないのです(憲法99条)。

以上論じてきたように、被告らの悪質な立憲民主主義の冒涜と、違憲立法による人権侵害行為については、抽象的な違憲判断と共に具体的付随的な賠償責任も問うことができると立証されました。加えて、英米における「懲罰的損害論」(訴状32頁)による同種の犯罪への予防有効性をも、本訴では考え合わせています。それゆえにわたしは被告らに、違憲立法の損害賠償として1,600,000円及び、245名の原告各人への10円を請求いたします。

以上
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by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:47 | 第1審(東京地裁)の記録

準備書面(4)

平成19年(ワ)第24676号 国等に対する損害賠償請求事件

被 告  国 外5名

準 備 書 面(4)


2007年11月9日

東京地方裁判所民事第24部合議C係 御中
               
まず損害賠償額について

以下に述べるように、教育基本法改変で子どもたちの心と体を国家が管理し、私たち自身の尊厳と平和で自由な生活も危ぶまれる、という私たちが受ける損害は甚大で、とても億・万の金額で償われるものではありません。しかし、高い訴訟費用の負担に耐えられないので賠償請求額を10円という金額にせざるを得ませんでした。被告議員や裁判官は私たちの税金を豊かに受け勤務時間として訴訟に臨むのに対して、生活時間と生活費を削ってしか主権者としての裁判を受ける権利を行使できない原告の立場を理解してください。

教育は国家行政の支配下で行われるように改変された

47年基本法10条「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべき。」が改変基本法16条では「不当な支配に服することなく、この法律ならびに他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は国と地方公共団体とが分担して公正かつ適正に行われる。」とされました。

従来法の“行政が教育に介入することを禁じ、学校と教育職員が直接に国民全体に責任を負って教育を行う”という教育のあり方を改変基本法では“教育は行政の定める法律にしたがって公正かつ適性に行われるべきで、行政の教育を批判するような不当な支配に服するな”と逆転させてしまっています。「公正かつ適正に」は、“従わない者は処罰する”という意味を含み、人々に服従を強いる行政の専門用語として使われてきています。つまり“教育を支配するのは行政であり、これに服従しない教職員は処分する”と改変されました。

改変基本法がめざす教育目的

47年基本法の目的が「真理と平和を希求する人間の育成、個人の価値を尊び、普遍的かつ個性ゆたかな文化をめざす教育の実現」であるのに対し改変基本法では「公共の精神を尊び、この国を愛し伝統を継承し、社会の形成者として必要な資質を備え、わが国の未来を拓く人材の育成をめざす」とあります。

従来法のキーワード『普遍的教育』とは“一国・一民族だけでなく全人類の平和のために50年、100年先でも通用する教育”です。ところが改変法ではこの『普遍的』を削除し“現在の政権の国家繁栄に都合いい人材の育成”つまり『普遍』でなく“日本だけ現在の政権だけ”に利する教育をめざす内容に変えられました。改変法の法文は従来法の法文に上手に似せてありますが、内容は、日本国憲法と国連子どもの権利条約が規定する人権尊重や民主主義に逆行し、現政府が人々を私物化して扱い易い人材に改造するための極悪法といわざるを得ません。

改変基本法の各条文で特に気になる内容

一、前文、1、2条では、国家を愛し進んで犠牲的奉仕をする国民育成のために
*個人の人格尊重に優先して、公共の精神を重視する態度を養う。
*日本の伝統文化が他国より立派で優れていると教え、だから愛国心は当然と教え込み、愛国的態度を養う。
*自律の精神と個人の尊厳を養い(自己責任)、規律を守り豊かな情操と道徳心を培う。 
などが強調されています。

一、2条では子どもに特定の「態度」をもつことを強制しています。
2条には「態度を養う」の文言が4度も繰り返し使われています。これは、「個人の尊重、思想・良心の自由、表現の自由」を規定した憲法13,19,21条と、国連子どもの権利条約12,13,14,15,16,29条とに違反しています。これでは“従順を態度で示せ”“踏み絵をしっかり踏めるように”という態度の強制になってしまいます。

一、4条には「能力に応じた教育を受ける機会を与えなければならない」とあります。子どもの能力にランクを付け、できる子とできない子を区別して教育する、つまり従来の「教育の機会均等」が改変され、能力別の格差教育を推進するようになりました。

さらに従来法の「義務教育を9年間とする」条項も、「男女共学」の条項も削除されました。『能力の低い子を9年も教育する必要はない。男女の格差は当然あるべき。』という考え方です。

一、改変基本法の10条には「子どもの教育の第一義的責任は家庭にある」と書かれました。つまり、競争のストレスや子どもの落ちこぼれは家庭の自己責任である、行政の責任では無い、だから家庭教育を頑張りなさい、とされています。

一、13条には「学校、家庭、地域住民は連携・協力して教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚すべき」とあり、競争格差教育の中でも子どもたちが抵抗せず秩序を守るように地域の住民同士で監視しあうことの必要が書かれています。

むすび

改変基本法が施行されて1年、すでに“個人より国家のための教育”が始まっています。学力テスト・体力テストが実施され、子どもたちは能力でランク付けられ、態度を見張られ評価されチェックされる環境にさらされています。能力が低いとされた子は落ちこぼされ、抵抗すれば非行として“適正に”処罰される、それが怖いからビクビクしながら子どもは“うわべの服従”や“あきらめの服従”を身に着け始めているでしょう。教育委員会・文科省そして公安の監視と管理が怖くて先生方の多くも苦境にあります。上意下達の教員管理の監視下にある先生から、子どもたちは将来への希望を学べるでしょうか。

最悪なのは教育効果によって服従が体質となってしまうことです。自分独自の意見など存在せず、服従に喜びを感じ、進んで将軍様に奉仕し、将軍様の喜びが自らの誇りとなる、命令ならば殺人も略奪もする、特攻隊として一人でも多くの敵を殺すために命をかけることを美しい犠牲と思うようになる、自分の命は国のためにあり国に奉仕して死ぬことが最も正しいと信じるようになってしまうことです。監視や管理・処分されないように黙って我慢と服従を繰り返しているうちに、国民の大半がマインドコントロールされてしまい、魂のない単なる働きアリや兵隊アリ・生殖アリに改造されてしまった悲劇の歴史を繰り返すことになりかねません。

まさか、大袈裟な、と言わないでほしい。改変教育基本法の手本とされた教育勅語で育成されたかつての日本人は、実際この通りだったではないですか。戦争を批判する親を非国民として公安警察に密告した子どもたちがいたのは歴史の事実です。「立派に死んで来い」と、日の丸の旗を振って万歳バンザイとわが子や家族や近所の人々を侵略戦争に送り出したのが、つい60、70年前の私たちなのです。愛すべき日本の勝利のためと教育によって信じさせられて、虐殺も略奪も破壊も平気でやらかしたのが今80歳以上の多くの日本人なのです。これが“国際平和・国際秩序・日本の指導的役割”を口実にした国策教育の結果だったことを、しっかり見据えなければなりません。

自分の子や孫が、格差を自己責任とあきらめ、上に立つ人の命令に無批判に服従するロボットのように育成される教育の改変を、大被害・大損害だと申し立てているのがこの裁判です。個人の人格・個人の尊厳・一人ひとりの命の大切さより、公共の精神や“国のために死ぬこと”を優先させる<改変教育基本法>を制定するよう策定した議員たちに、この国の将来を誤らせる重罪に対する懲罰としての賠償責任と、私たちの尊厳や魂の自由、子や孫・仲間との穏やかな心の交流を奪われることの個人的損害の賠償とを請求せざるを得ないのです。

まだ具体的被害は被っていないから損害申し立ての資格がない、などと言わないで下さい。もはや命令服従ロボット育成の教育は始まっています。お金をかけて育成する指導的人材育成コースと、その他一般下積み庶民コースとに分ける格差教育は着々と進められています。

テストと評価で競争に負けていく子どもたちは“従順なだけが取り柄の使い捨て低賃金労働者や使い捨て兵隊用として最低限の教育だけ施せばよい”と政府の教育諮問委員会の偉い人々がそう明言しています。

文科省・行政・教育委員会の上意下達の命令系統も、不服従を許さない監視・管理システムもすでに確立しています。人材育成教育に批判的な教員は見せしめとして日々監視・脅迫され、処分・排除され続けています。すでに多くの学校で、校長も教員も教育委員会の管理・監視に萎縮して、子どもたちに心をかけるゆとりが無くなっています。子どもたちの心の荒廃による非行には警察力・少年法の厳罰主義で対処するという体勢も整いました。

私の子・孫はまだ完璧なロボットにはされていない、まだ殺されてはいないから、損害賠償の申し立ての資格が無い、などと言わないで下さい。すでに“お国のための管理教育、精神支配教育、格差教育”で傷つきはじめています。魂のない完璧なロボットに改造されてしまってから、あるいは殺されてしまってからでは手遅れなのです。のど首にナイフをあてられていても、まだ殺されてはいないから被害はない、だから裁けない、などと言わないで下さい。

被告も裁判所も暖かい血の流れている普通の人間の立場で考えてください。「一人ひとりの命を大切に平和に文化的に生きること」、をめざす教育基本法を廃止して逆に、「国家の利益のために死ぬこと」、をよしとする教育基本法で子どもたちが育てられることの計り知れない害悪を実感してください。主権在民・人権尊重の憲法原則と、子どもの人格を尊重する国連子どもの権利条約の規定に厳格に則って審判されるようお願いします。

以上
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by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:45 | 第1審(東京地裁)の記録

趣意書・2

趣意書・1の続き

7、主権の実現方法としての裁判闘争における裁判のやり方

 ⑴ 主権を実現する方法としての裁判闘争という視点から、従来一般的にされてきた法廷での裁判のやり方を見直し、新たな裁判のやり方を創造する必要があると思います。

⑵ 従来の裁判を一応振り返っておきます。

 ① 裁判官を必要以上に崇め奉る。関係者は、裁判官の心証を害しないよう細心の注意をし、へりくだる。

 ② 諸外国の10分の1の裁判官数で、手抜きの裁判をするため、法律にある口頭弁論主義も「陳述します」と言えば、何十ページもの訴状、準備書面も、口頭でその内容をすべて述べたことになる。そのため裁判傍聴人は、傍聴してもどんな裁判か全く解らない。

 ③ 訴訟が裁判をするに熟したと判断するか否かは、裁判所の専権に属するとして、安易に結審をして、門前払い判決をする。

 ④ 裁判所は、原告・被告の証拠収集に対する力の不衡平を平準化するための釈明等の訴訟指揮をしない。

 ⑤ 裁判は形式的真実発見ではなく、実態的な真実発見のための制度であることを理解せず、実体的真実発見の究明をしようとしない。

 ⑥ 弁護士は、主権者との関係では、裁判官に次ぐ第2の権威者であり、裁判の一翼を担う者として、裁判所に取り込まれ、裁判官の下請け的な役割で、裁判官としてはやりづらい非民主的な面を(例えば、素人は発言すべきではない、心証を害するな、静かにせよ等)依頼者、傍聴人に命令する。いわば軍隊でいえば下士官である(上官が裁判官)。

  弁護士を、主権者よりは一段上、裁判官よりは一段下に位置させることが、当局による巧妙な主権者の分断作戦であることに気付かなければなりません。このことにいかに早く気付くかが、裁判闘争の基本です。

 ⑦ 傍聴人は全く静かに、行儀良く、裁判の進行を静視する役割だけが与えられていて、主権者としての意思表示(例えば拍手)をすることも許されない。足を組んで座ることさえ許されない。

⑶ しかし、裁判は、裁判官だけがするものではありません。
裁判官の最も重要な役割は、法廷を、自由で何でも言える雰囲気にして、原告・被告に、主張、立証を十分にさせて、それがかみ合うようにして、自ら、争点及び立証の程度が浮かび上がるようにすることです。

法廷を堅苦しい雰囲気にして、言いたいことも言えなくすることではありません。裁判官は当事者の言い足りないところを見つけて、それを引き出すように工夫すること、当事者の主張、立証がかみ合うよう交通整理をすることがその役割です。

そうすれば、自ら、争点、立証が明らかとなり、予断に満ちた権力者寄りの一方的な判決にはならないはずです。主張上も、証拠上も、また裁判進行上、訴訟指揮上も、裁判官に不当判決を書かせない態勢を、原告、傍聴人、さらには広く主権者、弁護士が協力して作り上げるのです。
裁判官に、判決は主権者全体で作り上げるものだと実感させる必要があります。

⑷ 裁判は、形式的真実の追及だけではなく、実体的真実の追及が当然の前提です。そのためには、原告・被告間に、証拠資料の収集に関する力の衡平がなければなりません。力の衡平は、裁判所の釈明権の行使等でなされるものです。

裁判所に、当事者の衡平と、実態的真実の発見の任務があることを、機会のある度に要求していく必要があります。

⑸ 弁護士の役割は、裁判所の下請、下士官に堕することなく、徹頭徹尾依頼者の側に立って、裁判官を監視し、牽制すること、依頼者の言い分を裁判官が理解できるような文書にして提出し、立証することです。

法律家としての弁護士には、主権の実現方法としての裁判闘争においては限界がある場合があります。常識的な法律家としては、やれることに限界があるのです。愛媛では、そのため、わざと一部を本人訴訟、残りを弁護士依頼の訴訟として、本人訴訟で自由奔放にする面と、法律的に裁判官を牽制する面との両立を図っています。

本人訴訟で自由奔放にする面に対し、相手方弁護士の異議や裁判官からの制約が入った場合に、それに対して弁護士は法律家として闘うのです。このように、これまでにはない創造的な裁判闘争をして、弁護士と原告本人との任務分担をして、主権実現を図るのです。

⑹ 書類等も、傍聴人に解ってもらう必要のあるもの、裁判官によく理解させておく必要があるものは、全文を本人訴訟の本人らが説明・朗読します。

⑺ 本人訴訟の原告は、裁判所の訴訟指揮に対し、主権者は市民であるという観点から注文をし、異議を言います。

 また、準備書面等の内容の説明や全文朗読を要求し、実現していきます。
毎回、その法廷での裁判長の訴訟指揮に対する異議の準備書面、口頭弁論調書に対する異議申立等、これまでの裁判闘争には無い闘争方法をとる必要があります。
書面も、本人訴訟の原告が書くことによって、これまでの裁判のカラクリが良く解ります。本人訴訟の原告の中には、今では、「裁判が趣味」であると言い出す人さえ出てきています。

⑻ 裁判傍聴人の権利も重要です。
裁判傍聴人の権利は、主権者の、信託を受けた公務員たる裁判官等が、裁判を公明正大、適正に行っているかどうかについて、裁判を監視する権利です。裁判官は独立が保障され(憲78条)、法律及び良心に従うことだけ(憲76条3項)で上司の統制等を受けません。

そこで主権者は裁判を監視し、公明正大、適正な裁判をしていない場合は、裁判官弾劾裁判所の訴追委員会へ裁判官の弾劾を訴追できる(裁判官弾劾法15条)のです。

 ① 傍聴人の権利についてはこれまで突き詰めて考えられたことがありません。
そのため、現状は、裁判所から、静かに行儀良く黙って見たり聴いたりする限度で許可されているのです。いわば、恩恵的措置を受けているのが現状です。

 ② しかし、傍聴権は、主権者が裁判を監視する裁判監視権がその本質です。
主権者には、裁判が、公明正大、適正に行われているか監視する権利があり、これが裁判傍聴権なのです。公文書公開請求権などとその根底を共通にする主権者としての権利です。

 ③ 裁判監視権としての傍聴人の権利は以下のようなものです。裁判監視権者としての傍聴人は、監視権に当然に伴う意思表示をすることが出来なければなりません。

  ㋐ 裁判中に拍手をすること等の意思表示をすることは当然出来るといわなければなりません。
  ㋑ 遺影を持っての傍聴も当然出来ます。
  ㋒ 裁判開始前に、関係者の肖像権を侵害しない法廷の撮影も当然可能です。
  ㋓ 裁判官(長)の声が小さ過ぎる場合は、聞こえるように要求することが出来ます。
  ㋔ 為政者は、裁判を聴覚だけを利用する方法に限定して、主権者の裁判利用を困難にしています。

裁判は江戸時代、明治時代の延長としての聴覚だけを利用する方法で、スクリーン等の映像、法廷と外部をインターネットで接続する等、 ITの視覚の利用等を一切していません。このような時代不相応の方法は、裁判を、公明正大、適正にしているとはいえません。傍聴人、当事者は、時代に相応した公明正大で適正手続に従った映像、IT等の視覚を利用すべきことを裁判所に要求できなければなりません。

 ④ 問題は、傍聴人が当事者に書面を説明あるいは朗読するよう要求する権利があるかどうかです。

  ㋐ 日本の裁判では、裁判官数がヨーロッパのいわゆる先進国の10分の1の人数でしているため、極めて手抜きの裁判がされています。

  ㋑ 同じような資本主義の経済体制で、同じような紛争があるはずであるのに、諸外国の10分の1の人数の裁判官で、出来るはずがありません。為政者は、主権者の裁判の利用を出来るだけしにくくしているのです。

  ㋒ そのような、適正手続違反の為政者による裁判統制に従う必要はありません。当然に説明、朗読を傍聴者の裁判監視権に基づいて要求できなければなりません。

  ㋓ 傍聴人は、裁判監視権に基づいて裁判を傍聴するので、原・被告どちらの側に対しても書類の説明・朗読を要求し、裁判所にそれを求めることができなければなりません。

 ⑤ 裁判所が手抜き裁判をして十分な時間を取らないため、当事者が書類の説明・朗読の時間が無いときは、公明正大性違反、適正手続違反の裁判になります。傍聴人は裁判監視権に基づいて裁判所に、十分な時間を取った裁判を要求できます。この点は、当事者も、もちろん出来ます。

 ⑥ 傍聴権の本質は裁判監視権なので、現実に裁判を傍聴していない裁判当事者も、傍聴者の立場に立った意見を代弁することが出来ます。

 ⑦ 今後、傍聴人の裁判監視権の内容を深めることが、そして、裁判当事者と傍聴人の連携が主権の実現としての裁判闘争には不可欠になります。

⑼ 何よりも、日本で現在行われていることは、世界的基準で見ると、相当遅れているということを自覚しなければなりません。法律の雑誌でも、「遅れている日本の人権感覚」(「国民の憲法意識―日本とアメリカ―」藤田泰弘、判例タイムズ№1225、76頁)が当たり前に言われているのは情けないことです。

それでも為政者は市民の人権意識の向上、裁判闘争をおそれて「人権だけを食べ過ぎれば日本社会は人権メタボリック症候群になる」(伊吹文科学相の長崎における自民党大会での発言)(2007年2月27日、朝日新聞社説)という市民が人権に目覚め、裁判に関心を寄せることに対する牽制を常にしています。

8、以上のような主権の実現としての裁判闘争を全国的に展開する予定です。

以上
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by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:45 | 趣意書

趣意書・1

趣 意 書

2007.3.12
「えひめ教科書裁判を支える会」
「杉並の不当な教科書採択取り消し裁判の会」

教育基本法改悪違憲、地元選出国会議員に対する損害賠償訴訟
― 教基法は改悪された、されど、どっこい、主権者は健在だ! ―


第1、新たな訴訟

この度、改悪された教基法は、違憲で無効であることの訴訟及び改悪教基法の成立に賛成した国会議員について、各地から、地元選出国会議員に対し、損害賠償訴訟を提起しようとしています。先例の全く無い訴訟で、理論上も非常に困難な訴訟ですが、衆知を集めて克服し、裁判にこぎつけようとしています。

この度の訴訟は主権の実現として、必ず、行わなければならない訴訟です。そもそも日本では、主権実現方法として裁判闘争をするという考え方がありません。しかし、選挙権の行使と裁判による牽制は一体となったものです。それを別々のものだとわれわれは洗脳されています。これを機会に、主権実現の多様性を取り戻さなければならないのです。今回がその良い先例になるようにしようと思っています。

違憲・違法な法律を作っても、簡単には市民はあきらめない。また、憲法や教育基本法の制定によって、植民地等の支配責任等に代えるという措置を受けた深刻な利害を有する近隣諸国の市民もこれを許さないだろう。人民が国境を越えて連帯し、主権者である意地を見せる必要があります。違憲立法は、主権の侵害の第一ラウンドに過ぎず、最終ラウンドでは無いことを実証するのです。

第2、主権実現方法としての裁判闘争

1、主権の行使方法

日本において、主権者としての主権の実現方法としては、㈠選挙権の行使による間接民主制、㈡選挙権を行使して選んだ国会議員が、憲法、法律の規定を裏切った場合の裁判で牽制することによる主権の実現、㈢ビラ、デモ、座り込み、文書、インターネット等による直接民主主義的主権の行使があります。

2、マインドコントロール

ところが、為政者は、主権の行使方法を㈠の選挙権の行使に限り、(その上、利権のからみがあって正当に選挙権を行使しないこと、小選挙区制等の不当選挙、日本国籍のない定住者の選挙権を認めないこと、個別訪問の禁止、ビラの数等の制限、既成政党の優遇等の選挙方法の制限、地域による一票の格差等、選挙権の行使を非常に制限的に規制し、真の主権の実現を困難にしている)、㈡の裁判闘争は、容易に諸国民が連帯して行使することが出来るので、その連帯を阻止しようとして、裁判が主権の実現のための制度ではないとし、裁判は「紛争の解決」であることを強調して、主権の実現とは切り離し、㈢の直接民主主義的主権行使の手段については、表現の自由の問題、思想、信条の自由の問題として(当然にそのような自由の問題ではあるが)、本質的には主権の実現方法であることを隠蔽する種々のマインドコントロールをかけられ、われわれは、このマインドコントロールに支配され、主権の実現を妨げられてきました。

3、主権実現の方法としての裁判(特に行政裁判)闘争

  ⑴ 本来、選挙権を行使して、国会議員等を選出するだけでは、主権を本当に行使したとはいえません。
選出された国会議員等が憲法を尊重擁護せず(憲法99条)、違憲の法律を作ったり、その他法律の規定を無視し、国政を信託された者として、その信託に反する行為をしたとき、われわれ主権者としては、国会議員を牽制し、本来の職務を全うしてもらう必要があります。そのため裁判は必要不可欠です。
つまり、選挙権の行使という主権の行使をフォローする方法が当然必要です。そのフォローの仕方が裁判なのです。選挙権の行使と、行使した結果生まれた国会議員が期待を裏切り信託関係を壊した場合に、牽制の裁判をすることとは、本来、一体となったものです。そのどちらが欠けても十分な主権の行使といえないのです。さらにいえば、日本では牽制の裁判を欠いているので、選挙権の行使だけでは意味が無いと思う人が多く、選挙の投票率が落ちているのです。

  ⑵ このように選挙権の行使と、その後の牽制の裁判は、主権の実現としては本来一体となっているものです。
ところが、為政者がわれわれにマインドコントロールをかけて、選挙権の行使は、選挙権の行使だけ、裁判は「紛争の解決」の問題で、デモ等は表現の自由の問題であるとして、それぞれ分断され、主権の実現とは別物とされています。これまでわれわれ主権者は、このマインドコントロールにうまくひっかかってきてしまったのです。

⑶ このようなマインドコントロールから、まず、われわれは解放されなければなりません。


4、主権者が裁判に目覚めることを恐れる為政者

  ⑴ 本来、主権者は、政府や国家に対し、自分たちが国家の主権者であり、国家の政策を決定する主体であること、国会が決め、内閣が実行した政策が違憲であったり、民意に反していた場合は、彼らはその責任を問われ、私たち主権者は、その責任を問わなければならないという主権としての当事者意識がなければなりません。そして、そのような主権の実現のためには裁判闘争が必要不可欠です。裁判は、目の前で結果が明らかになること、何度でも行使できることなど、主権の実現としてこれほど貴重なものはありません。ところが、日本の為政者は市民が主権の実現としての裁判闘争に目覚めること、さらには、近隣諸国民が植民地支配責任等を追及するため、連帯して裁判闘争をすることを極度に恐れ、種々のマインドコントロールをかけるだけではなく、特に日本では、裁判制度自体を極めて利用しにくい制度にして裁判権の行使を妨げています。

 日本の裁判制度は、世界的に見ても、異様なほど利用しにくいものになっています。逆にいえば、市民を抑圧する国ほど、裁判制度を市民が利用しにくいものにする典型例です。
そこで、日本の裁判の概要をみてみることにします。

⑵ 裁判所の国家予算(2006年度)(裁判所データーブック26頁)

   予算総額 79,686,000,000円(単位千円)
   裁判所予算   333,106,391

国の予算に対する割合      0.41パーセント
   三権分立の一翼を担う司法でありながら予算的には0.4パーセント

  ⑶ 裁判官数(同28頁)

    アメリカ 3万1574人  人口 2億94万人
    イギリス   3817人  人口 5300万人
    ドイツ  2万395人   人口 8000万人
    フランス   5645人  人口 6000万人
    日本     2535人  人口 1億2000万人
     日本  アメリカ、ドイツの10分の1~5分の1
         イギリス、フランスの3分の1~5分の1

⑷ 行政事件数(「建築紛争」五十嵐外著、岩波新書、194~195頁)

相手方の手持証拠の開示制度が無い日本では、訴訟が極めて困難であるので、極端に少ない。

           件数       人口比 日本基準に直すと
アメリカ  4万4000    2万2000件
イギリス    4247      9600件
ドイツ   51万         77万件
フランス  12万         24万件
日本      2000      2000件
(諸外国では人口比率的にみて行政裁判が選挙権のフォローの役割をもしていることが明らかである。)
(訴訟数も、日本では、人口比でドイツの数百分の1、韓国・台湾の数十分の1にとどまる。インターネット「行政訴訟のパラダイム転換」阿部泰隆 神戸大学大学院教授)

  ⑸ 情報公開

ドイツではナチスの反省から、ドイツの官僚には詳細に記録を残す義務が課せられ、それらを訴訟で提出義務がある(「よくなるドイツ、悪くなる日本」関口博之著、地湧社、3頁)。

  ⑹ 官僚裁判官だけでなく、裁判への国民の参加が一般的である。

陪審制   アメリカ、イギリス
参審制   ドイツ(プロの裁判官1人ないし3人に市民2人ないし3人)
          フランス(プロの裁判官3人に市民9人)
陪審・参審併用 スウェーデン(出版、表現の自由に関する犯罪は陪審、その他は参審)

  ⑺ 日本の民訴法等は、手持証拠の開示義務(ディスクロージャー)、懲罰的損害賠償制度を定めていません。ディスクロージャーが無いので、行政訴訟を提起した市民側が負けることは目に見えています。また懲罰的損害賠償制度が無いので、原告側に損害が無いので、その余の点を判断するまでもないという理由で、敗訴となるのです。裁判所は靖国訴訟等、まともに判断すれば国側の敗訴となる訴訟で、国側を勝たせる常套手段として、「原告側に損害が無い」という理論を用います。

  ⑻ 印紙代

    アメリカでは印紙代は一律100ドル(12,000円)程度。
    日本では訴額に応じて高騰し、100万円の訴額で印紙代1万円、1億円の訴額では32万円です。

  ⑼ クラスアクション(集団訴訟)も日本には無い。ある行為や事件から同じような被害を受けた者が多数いるとき、日本では、一部の被害者が全体を代表して訴訟を提起することを認める制度であるクラスアクションが無く、印紙代が高額になるので、集団での訴の提起が非常に困難です。

  ⑽ 映像等ITの極度の利用制限

裁判を筆記と聴覚だけに限定して、映像化せず、またインターネットで広域に瞬時に報道されることを嫌い、前近代的な方法だけに固執しています。

  ⑾ 裁判官のヒラメ化とヒラメ裁判官による門前払い訴訟の横行。

為政者は、裁判官に対する報酬、任地を恣意的に運用して、裁判官が政府や最高裁の意向を極度に気にする体質にし、そのようなヒラメ裁判官によって国や行政機関に対する重要な裁判であればあるほど門前払いの裁判をするようにしむけています。

諸外国においては、門前払いを主とする日本とは全く逆に、訴えの提起と同時に原処分関係一件書類を裁判所へ送付させ(ドイツ財政裁判法71条2項)、裁判所の釈明義務を明定し(ドイツ行政裁判法86条3項)、関係人の主張及び証拠の申出に拘束されることなく職権による証拠調べができるものとし(同法同条1項)、あるいは、文書提出命令の根拠を定めて(同法99条1項)、当事者間の不衡平の平準化を図るとともに、形式的真実発見に甘んずることなく、できるだけ実体的真実発見の理想に近接することを目指しているのです。(「紛争の行政解決手法」南博方著、有斐閣63頁)。

このように、日本と諸外国とでは、門前払いと真実発見の究明、当事者間の不衡平の是認と不衡平の平準化という雲泥の差があることを知らなければなりません。

  ⑿ 以上のように、日本では裁判をすることを非常に困難にして、市民から裁判を遠ざけています。その結果、日本では主権の実現が非常に困難になっているのです。そこで、国は豊かで世界経済ランキングの上位にありながら、市民の大半は生活に苦しんでいるのです。

5、裁判の勝ち負けをどう考えるべきか

  ⑴ 日本の裁判はヒラメ裁判官といって、政府や最高裁等、上の方ばかりを気にする裁判官がします(2004年10月19日朝日新聞)。そこで、行政事件の「国民」の側の勝訴率は異常に低くなっています。このようなヒラメ裁判官が担当し、行政機関の手持証拠を出させる手段もなく、裁判で勝訴することは例外的なことです。

判決結果による勝訴という観念を変えなければ、勝訴の可能性が無いので裁判することをあきらめ、為政者の洗脳に陥ることになります。

  ⑵ 裁判が主権の実現の方法としての手段であるなら、ここにおける敗訴とは、主権の実現の方法としてあまり有効なことが出来なかったことをいい、判決結果による裁判の勝訴、敗訴とは別に考えるべきです。愛媛の例では、教育委員会の公開の裁判を提起したところ、それまで非公開であった委員会が公開になりました。

このように、裁判の結果だけでなく、裁判の過程も裁判の効果として考える必要があります。

  ⑶ なによりも、公務員は、「国民」の信託によるものであり(憲法)、「国民」に責任をとるものです。ところが現実には、国や上司に対して責任を取り、「国民」に責任を取っていません。それが、人民から責任追及の裁判を提起されると本当に驚きます。裁判を提起することは、そのように大きな意義があるのです。

6、敗訴が「先例・判例になる」という考えにどう対処するか

  ⑴ 日本の裁判は、判例法主義ではありません。従って、同種の先例の裁判があっても、それに拘束されることはありません。実際上は参考にはされますが、それぞれの裁判で争い方、証拠の内容も異なり、全く同一の裁判というものは無いので、先例を引用して同一の結論とするという方法は判例法主義では無いのでしません。

  ⑵ 全国で裁判のある靖国裁判、住基ネット裁判等、多数の裁判があり、主権者の観点から多少は好ましい判決もありますが、決して先例、判例にはなっていないのが実状です。

  ⑶ 先例、判例になるので安易に裁判を起こすべきではないというのは、「ための理由」の側面が強く、従来の勝ち負け観に基づくマイナスの側面だけを取り上げているのではないでしょうか。

  ⑷ 「安易に起こした裁判」が後々の先例、判例になると批判がありますが、そのような提訴が中味のある裁判にはなりません。「安易な裁判が先例、判例」になるということはあり得ないことであり、自己矛盾を言っていることが明らかでしょう。

  ⑸ 敗訴は、先例、判例になるというのも、裁判を利用させないようにする為政者の人民に対する洗脳、マインドコントロールの一方法であるということに気づいて下さい。

趣意書・2に続く
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by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:45 | 趣意書

準備書面(5)

平成19年(ワ)第24676号 国等に対する損害賠償請求事件

被 告  国 外5名

準 備 書 面(5)

2007年11月9日

東京地方裁判所民事第24部合議C係 御中

納税者・有権者を騙した「やらせタウンミーティング」

陳述の冒頭に、まず有権者として被告らに道徳観というものを問いたい。
わが国の、特に自公連立政権・与党国会議員の道徳では、不正・違法な世論誘導を前提にした今回の教育基本法案成立を是とし、恥と思わず今後も同様な不正があっても法案成立は別問題とすることになるのか、被告らの認否を求める。

原告ら訴状に加え、不道徳で違法性のあるタウンミーティングについて以下を陳述し、立証するとともに被告らに事実確認の認否を求める。

1.2001年度に小泉内閣の下で始まった政府の公的な事業であるタウンミーティングは税金により運営されていたことの認否を被告らに求める。

2.やらせタウンミーティングについての関係者処分はやらせの事実を政府が自ら認めたことであることの認否を被告らに求める。

3.内閣府タウンミーティング室、同大臣官房会計課を筆頭にタウンミーティング共催となる関係各省庁という国の各機関が開催地自治体とも共犯としてやらせタウンミーティングを実施したことになることの認否を被告らに求める。

4.やらせタウンミーティングの不正な実態が明らかになった【甲第8号証 調査報告書】が、外部から指摘を受けるまで政府内関係者の誰一人それを未然に止めることが無かった(内部からの是正、内部告発も無かった)。その組織(特に内閣府タウンミーティング室、文部科学省大臣官房教育改革推進室、関係自治体の県教育委員会等)の自浄作用がまったく無かった事になる。むしろ積極的に点数稼ぎとして都合の良い結果のための不正が横行したと見られる。これにたいする認否を被告らに求める。

5.これらのタウンミーティングによる納税者・有権者への騙しが、「内閣と国民との対話を促進する目的とする事業」とは間違っても言えない。このことの認否を被告らに求める。

6.やらせタウンミーティングが、税金により広告代理店(電通や朝日広告社)に企画・開催・運営等が発注されていたことは、商業主義論理を取り入れたことになる。いかに発注者(内閣府)の意向に沿って提案し、企画・運営するかという論理であり、この広告業界との相関関係は、恐るべきことにわが国司法の頂点である最高裁もタウンミーティング(裁判員制度導入のための)で利用した【甲第9号証 月刊現代07.4月号】。納税者・国民を騙すための違法なタウンミーティングに税金が使われていた【甲第10号証 月刊現代07.4月号】。この巧妙な手口には愕然とする。 

7.最高裁・電通・共同通信・地方紙「四位一体」による裁判員制度タウンミーティング実施企画書に見る国民騙しは全てに通じる。タウンミーティングとは国民との対話を促進する事業などというしろものではない、政府が一方的に都合の良い情報を流すか、やらせによる国民の理解を演出しているだけであることが暴露されたので、タウンミーティングなるものの本質を理解するための実例として以下に取り上げる(月刊現代07.4月号「最高裁が手を染めた27億円の癒着」より一部引用)。 

電通作成の仕様書にある「今回の提案のポイント」には、「全国地方新聞社連合会、共同通信社、裁判員制度タウンミーティングを実施すること」が強調されている。 さらに引用すると「最高裁判所、高等裁判所、地方裁判所、主催新聞社(各社、全国新聞社連合会)、共同通信社、電通が一体となり、目的達成に向けて邁進する」と仕様書に記載されている。これでは国家総動員体制と変わらないではないか。わが国司法は納税者・国民を騙してまともに顔を上げることが出来るか問いたい。正義はどこに行ったのか。本法廷での本案審理においても、これらに目を背けることは許されない。

からくりを同記事からの引用を含め述べてみる。このパターンや企画は全国47地方紙全て同じでただの1社も例外は無いという。タウンミーティングの開催が決まると、共催者である各地の地方紙は、まず「平成21年5月までにスタートする裁判員制度について理解を深め、ともに考えるフォーラム」を○月○日○○ホールで開きますといった内容の社告を掲載する。これは地元新聞社が読者に呼びかける社告だから最高裁はその掲載費用は負担しないですむ。

次にこの社告を出した直後に最高裁が電通を通じて出稿したタウンミーティングの「告知広告」(5段)を2度に渡って記事下の広告欄に有料で掲載する。これは、最高裁、高裁、地裁、当該新聞社、地方紙連合、の共催と明記されているから、事情を知らない読者には最高裁が広告費を負担しているのか、新聞社が無料で掲載しているのかは判断がつかない仕掛けだ。記事なのか広告なのか紛らわしい手法をわざと使っている。 業界の人間ならすぐに意図がわかる。

予定通りタウンミーティングが開催されると、その模様を3段記事程度で伝え記事が社会面に掲載される。もちろんこれは広告ではないから無料。 

そして最後に、開催から1週間ほどたった日の朝刊にタウンミーティングの模様や詳細なやり取りを伝える10段(紙面の3分の2)の特集記事と最高裁の裁判員制度についての5段広告が同じ一枚の紙面に掲載される【甲第11号証 産経新聞大阪朝刊05.11.11】。

この記事下の5段広告には裁判員制度のイメージキャラクターに05年度に起用された女優の長谷川京子の大きな写真が「裁判は、あなたに語りはじめます」というキャッチフレーズとともに掲載されている。左隅には「最高裁判所」と明示されているので、読者は料金を払った最高裁の広告であることが判る。
 
つまり、最高裁の有料広告3回15段に実は無料の「社告」「社会面記事」「10段特集記事」がオマケで付いている。このオマケの広告効果は有料広告以上に大きい。なぜなら「実施主体の中立性」という官庁や裁判所とは一線を画す独立した新聞社の編集権にもとづく特集記事だと思い込ませ、裁判員として参加するのが国民の義務だという空気を醸成することが出来るからである。

全紙が同じ企画で詳細を載せているのは、あらかじめ電通が「特集10段、広告5段」と指定していることが電通の仕様書でわかる。本来この10段特集には<PR>とか<裁判所の広告>といった断りが無ければおかしいが、それを明記していた地方紙は1社もないという。

つまり社会面の記事も特集記事も、たちの悪い企業が読者を騙して新商品を買わせようとするときに使う「偽装記事」と同じ手口である。

当然ながらこうした偽装記事は記事の客観性・中立性にたいする読者の信頼を決定的に損なってしまった。

最高裁は広告と偽装記事を抱き合わせにした電通・地方紙連合方式の狙いを十分認識しながら、電通と結託し税金を垂れ流し、世論形成にやっきとなって納税者・国民を欺いたわけである。

このようにタウンミーティングにまつわる欺瞞性と違法性の構造は、わが国最高裁らが麻薬に手を染めるように陥ったものであり、その誘惑を熟知している立場にある。よって、今回内閣府を中心とした特に教育基本法改正案を通すためのタウンミーティングの違法性に目をつぶることはいよいよ司法の自殺に等しいと警告しなければならない。原告らも本提訴によって真実を明らかにし、正義を本法廷に求めるわけだが、司法に対し複雑な心境であることを付け加えたい。

8.文化力タウンミーティングイン京都という違法なやらせタウンミーティングのなかで、象徴的に悪質で、言論統制・封殺、情報統制、個人情報操作等国と京都市が考えうるあらゆる不正・違法を行った事実を改めて確認したい。被告らはこれら事実を認否せよ。

ここでタウンミーティングの事業の性格を再確認する。タウンミーティング調査委員会報告書【甲第8号証】から引用する。このタウンミーティングは「内閣の閣僚等が、内閣の重要課題について広く国民に意見を聞くとともに国民に直接語りかけることにより、内閣と国民の対話を促進することを目的とする」、具体的には「時の重要政策課題について、内閣と国民との直接対話という双方向のコミュニケーションを通じてより的確に国民のニーズを政策の企画立案や運営に反映させる上で重要な政策手段」であり、「草の根民主主義の原点」であり、「直接民主主義的手法により民主主義のプロセスを充実させる施策として極めて重要」とされている。  

この一言一句に該当せず、しかも不純な動機などはいることは事業展開に許されない。参考に政府広報しましたというレベルの事業ではない。このことを被告らは認否せよ。

国(内閣府)・京都市(京都市教育委員会)が、この事業に持ち込んだ不正・違法について述べる。

①内閣府においては
  ア 参加応募者名簿を京都市教育委員会に送り、「問題のある人物」の有無について応募者をチェックさせ
  イ 京都市教育委員会からの報告にもとづき、落選させる工作(不正な抽選)を行い
  ウ さらに恣意的なかつ正当性の無い落選者をだした。

②京都市教育委員会においては
ア 一般公募の条件を無視し、これとは別枠で多数の参加者を動員して抽選の必要性を作出し
イ 内閣府に応募者名簿を送るように要請し、送られてきた名簿をチェックして、個人情報を無断提供し、参加させないよう内閣府に要請し

③もって、両名共謀のうえ、故意により、違法に参加希望、発言機会を奪い、あるいはその個人情報を無断で漏洩する等して、プライバシー権まで侵害した。

*これらは京都市の市民が文書開示請求することで判明したことである。【甲第12号証】
ここにも内部告発の自浄作用は全く無く、きわめて不道徳な事業である。 かつ、ここでは国と京都市の行為により、憲法13条(個人の尊重)、憲法19条(思想および良心の自由)、憲法21条(表現の自由)等の権利が侵害されており、市民らの精神的苦痛も大きかった。
 
*また、ここでもやらせ質問者15名について「必ず当選としていただきますよう宜しくお願いいたします」と京都市は内閣府に求めていた。

*前述のタウンミーティング事業の性格と照らし合わせれば、全く背任といえる行為である。

9.教育・教育基本法に関連したタウンミーティングがこれほど不道徳な運営と違法な騙しの塊であったことは、小泉から安倍内閣と続いた中での政府法案の動機が不純で、内容も問題が多く拙速であったことを証明する証拠である。

専門家にも懐疑的で、国民にも不人気でアンケート上も裁判員にはなりたくないという比率の方が大きい裁判員制度と、議論も熟しておらず、国民の声から出た必要にせまられたわけでも無い教育基本法改正についてのタウンミーティングでは、いずれも納税者・国民を騙すことに使われた。

これらは、国会での議決も強行採決といわれる中で行われており、不道徳かつ違法な過程を経て無理押しをした、汚れた法案でありながら被告らが賛成し、強行採決したことは事実である。

以上から、被告らは憲法99条(憲法擁護義務)および99条の内在的違反、憲法31条(法定手続きの保障)、国家公務員法違反等により被告らの法的責任は逃れられない。

よって、請求の趣旨のとおりの判決を求める。

以上
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by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:44 | 第1審(東京地裁)の記録

証拠保全申立書

平成19年(ワ)第24676号 国等に対する損害賠償請求事件
被 告  国 外5名

証 拠 保 全 申 立 書


東京地方裁判所民事第24部合議C係 御中

2007年11月9日

改定教育基本法が違法な手続きのもとに、成立した事実を証明するため、以下のように、証拠保全の手続きを申し立てる。



一、証拠保全対象 

1、以下にあげるタウンミーティングでのやらせ質問に関する資料一式の保全を求める:

1)タウンミーティング調査委員会による調査報告書によると、やらせ質問に5,000円の謝礼金が支払われている者は65名であるが、これを含め、タウンミーティングで3,000~5,000円の謝礼をもらった人の名前・住所・連絡先が記された名簿。

2)タウンミーティングでやらせ質問を依頼した者の部署・氏名・連絡先が記された名簿

3)2003年(平成15年)12月13日に行われた「第100回教育改革タウンミーティング イン 岐阜―教育改革の推進と教育基本法の改正」において、文部科学省大臣官房教育改革官室から岐阜県教育委員会に対して送られた、質問5問が記された依頼状

4)2004年(平成16年)5月15日に行われた「第111回教育改革タウンミーティング イン 愛媛」において、文部科学省大臣官房教育改革官室から愛媛県教育委員会に対して送られた、質問7問が記された依頼状

5)2004年(平成16年)10月30日に行われた「第124回教育改革タウンミーティング イン 和歌山」において、内閣府タウンミーティング室が、文部科学省大臣官房教育改革推進室と調整し、和歌山県教育委員会に対して送られた、質問4問が記された依頼状

6)2004年(平成16年)11月27日に行われた「第125回教育改革タウンミーティング イン 大分」において、内閣府タウンミーティング室が、文部科学省大臣官房教育改革推進室と調整し、大分県教育委員会に対して送られた、質問4問が記された依頼状

7)2006年(平成18年)9月2日に行われた「第173回教育改革タウンミーティング イン 八戸」において、内閣府タウンミーティング室及び文部科学省が共同して作成し、大分県教育委員会に対して送った、質問3項目が記された依頼状

2、以下のように、内閣府が広告代理店「電通」「朝日広告社」と結んだ契約書・指示書・請求書・支払い明細書等一式の保全を求める:

1)タウンミーティング開催のために、内閣府は、平成13年度~平成18年度にかけて広告代理店「電通」と「朝日広告社」と随意契約及び一般競争契約を結んだ。これらの契約による支払いは年間3億~9億円にのぼる。これらの契約書と指示書、及び請求書または支払った代金の明細書


二、証明すべき事実

タウンミーティングが世論を作為的に誘導した事実の証明、および改定教育基本法の成立過程が違法であることの立証のため

三、証拠保全事由

原告らは、やらせタウンミーティングについて、タウンミーティング調査委員会の調査報告書【甲第8号証】から、おおよその事実を知ることができたが、この報告書の原典となる、上記保全対象の証拠類を再度、原告の視点から検証する必要がある。

調査報告書は、あくまでタウンミーティングの実態調査目的で報告されている内容であるので、教基法改定に果たした役割について分析していない。原典の上記にあげた証拠に立ち返り、世論がどのように作為的に誘導されたかについての事実を証明することは、本件における改定教基法が憲法違反であるかどうかを究明するために不可欠である。

よって、上記証拠の保全を申し立てるものである。

以上
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by kyokihoinmypocket | 2008-10-29 23:35 | 第1審(東京地裁)の記録

訴状・1

訴  状

2007年9月21日

東 京 地 方 裁 判 所 御 中

選定者233名の選定当事者 3名  
原告    12名
原告計    245名

被告   国 (代表者 法務大臣 長勢 甚遠)
被告   文部科学省 
(代表者 文部科学大臣 伊吹文明)
被告   小杉 隆
被告  下村  博文
被告  木村 勉
被告  島村 宜伸
被告  太田 昭宏 


損 害 賠 償 請 求 事 件

訴訟物の価額  金 1,602,450円
貼用印紙額      金 14,000円

当事者の表示
原告ら当事者目録のとおり
被告ら当事者目録のとおり


( 請 求 の 趣 旨 )

1、2006年12月15日成立した教育基本法(平成18年法律第120号)は憲法違反であり、無効であることを確認する。

2、被告らは、各自、原告それぞれに対し、金10円及び、これに対する2006年12月15日より完済までの間、年5分の割合による金員を支払え。

3、訴訟費用は被告らの負担とする。

との判決及び2項について仮執行の宣言を求める。


( 請 求 の 原 因 )

第1、当事者

 1、原告
  (ア) 日本国籍を有する東京都民であり
  (イ) 東京都以外に住む日本国籍を有する者であり
  (ウ) 日本以外に住む日本国籍を有する者であり
  (エ) 韓国国籍を有する者であり
  (オ) ニュージランド国籍を有する者である。

 2、被告
  (ア)被告は、国(法務省の代表は、法務大臣長勢甚遠)である。
  (イ)被告は、文部科学省(文部科学省の代表は、文部科学大臣伊吹文明)である。
  (ウ)被告小杉隆は、東京都5区選出衆議院議員であり、教育基本法に冠する特別委員会委員であり、内閣が提出した改正教育基本法案に賛成し、改正教育基本法の成立に加担したものである。
  (エ)被告下村博文は、東京都11区選出衆議院議員であり、教育基本法に冠する特別委員会委員であり、内閣が提出した改正教育基本法案に賛成し、改正教育基本法の成立に加担したものである。
  (オ)被告木村勉は、東京都15区選出衆議院議員であり、教育基本法に冠する特別委員会委員であり、内閣が提出した改正教育基本法案に賛成し、改正教育基本法の成立に加担したものである。
  (カ)被告島村宜伸は、東京都16区選出衆議院議員であり、教育基本法に冠する特別委員会委員であり、内閣が提出した改正教育基本法案に賛成し、改正教育基本法の成立に加担したものである。
  (キ)被告太田昭弘は、東京都12区選出衆議院議員であり、教育基本法に冠する特別委員会委員であり、内閣が提出した改正教育基本法案に賛成し、改正教育基本法の成立に加担したものである。

第2、改正教育基本法の憲法違反

 1、権力拘束規範から子ども・親・市民への命令規範へ
―教育勅語への回帰―
  政府は、2006年12月15日、現行の教育基本法の「全部を改正する」法案を国会で可決し、改正した(甲第1号証)。この改正法は、現行法(昭和22年法律第25号)を「全部改正」するかたちをとっているが、実質的には現行法を廃止し新教育基本法を制定しようとするものである。それどころか、「全部改正」法は、教育基本法の法としての性格を根本的に転換し変質させた。
  改正前の教育基本法は、憲法と同じ1947(昭和22)年3月31日に公布し施行された。前文と全11条からなるシンプルな法であるが、その意味内容は、むしろ歴史とともに豊かになり、21世紀においても十分対応できるだけの深さを有していると言われている。それは第一に、その前文に「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」とあるように、憲法価値を教育により実現しようとしたものであり、憲法と不可分一体をなす〈準憲法的〉な性格を持つ法律である。第二に、同法は、憲法26条の「教育を受ける権利」を実現するために営まれる教育の基本原理を定めたものであり、〈教育憲法〉としての性格を持つ法律でもある。

  このような法的性格を持つものとして成立した改正前教育基本法は、一方で「教育の機会均等」と定めた3条や、「男女共学」をうたった5条などに見られるように、憲法下の新しい教育の〈あるべき筋〉を打ち出したものである。他方で、学校における政治的活動を禁じた8条2項や、公立学校における宗教的活動を禁じた9条2項などが示すように、教育の〈あってはならない筋〉を明示するものでもある。

 このように改正前教育基本法の各条項は、いずれも「教育を受ける権利」を保障し実現する責務を負う者に向けて、教育に関する〈あるべき筋〉と〈あってはならない筋〉を明示した法規範であり、その名宛人を公教育について責任を負い「権力」を行使する者としていることは明らかである。その意味で、改正前教育基本法は、教育を受ける者との関係において「権力」を行使する者に対して、「すべきこと」と「してはならないこと」を命じた規範であって、教育を担う公権力(特に教育行政権力)に向けられた〈権力拘束規範〉であることをその本質としていると言っても過言ではない。教育の直接責任制を掲げ教育行政の条件整備義務を定めた改正前教育基本法10条は、この法律が何よりもまず、教育行政権力に向けられた〈権力拘束規範〉であることを端的に示している。

 このように、改正前教育基本法がすぐれて教育行政権力に向けられた〈権力拘束規範〉としての性格を有する法律であることは、同法が不可分一体をなす憲法の立憲主義的意味に基づくことによるのである。

 権力拘束規範である憲法と不可分一体をなす改正前教育基本法が、その名宛人を教育行政権力とする〈権力拘束規範〉であることは、憲法がすぐれて〈権力拘束規範〉である本質に倣ったものであり、近代立憲主義に合致するものであることは言うまでもない。

 改正前教育基本法の名宛人が教育行政権力であり、教育行政当局の教育へのかかわりの仕方に枠をはめ、その権力行使のあり方を拘束することに法の基本的役割があることは、法の世界では争いようのないことである。それは他方で、改正前教育基本法が教育を受ける権利を有する子供や、それをサポートする親・市民に直接に向けられたものではなく、これらを規範的に拘束しようとするものでないことを意味していることも確かである。

 ところが、改正教育基本法は、2条において教育の目標を詳細に規定し、子供が教育において目標とすべき「伝統と文化を尊重し」「わが国と郷土を愛する」態度を養うことも目標としている。また、6条2項において「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」ことを求めている。さらに、10条の家庭教育において父母らに「生活のために必要な習慣を身に付けさせる」ことを求めた上で、13条で、「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」と義務付けようとしている。

 これらの規定に顕著に見られるように、改正教育基本法は、〈権力拘束規範〉であった改正前教育基本法の本質を大きく転換し、これを〈子供・親・市民への命令規範〉にもしようとするものであり、法の基本性格を変質させたものであると言ってよい。

 しかし、法や規範への忠誠を国民・市民に求めるのは、そもそも〈忠誠の排除〉を求めて「教育勅語」に代えて新しく定めた改正前教育基本法を「父母ニ孝ニ」に始まる徳目の最後に「国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」と挙げていた「教育勅語」に、再び限りなく回帰させようとするものである。

 最近、憲法を「国家権力を制限する規範とするにとどまらず、国民の行動規範とし国民への命令規範へと変えようとする」動きに対して、近代立憲主義の立場から警鐘が鳴らされている。改正前教育基本法の「全部改正」法は、憲法をめぐる昨近の動きとも軌を一にするものであり、改正前教育基本法と不可分一体をなす憲法の〈権力拘束規範〉的な基本性格をも大きく変質させることに拍車をかけ、近代立憲主義自体を根底において掘り崩すことになりかねないものである。

 2、憲法及び子どもの権利条約違反の改正教育基本法

  改正前教育基本法が、教育の基本理念と基本原理を定めた〈教育憲法〉であるだけではなく、憲法価値を実現するために憲法と不可分一体なものとして定められた〈準憲法的性格〉を持つ基本法であることは、既に憲法の制定審議過程における田中耕太郎文部大臣(当時)の答弁や教育刷新委員会の審議録において明記されており、また旭川学力テスト事件に関する最高裁大法廷判決(1976年5月21日)の中でも確認されている。改正前教育基本法は、憲法価値を積極的に実現する教育の基本法として定められたわけであるから、その「見直し」「改正」にあたっても、憲法に照らし合わせて行わなければならないことは言うまでもない。

 憲法とならんで、もう一つ、検討の基準・指標にすべきものは、子どもの権利条約を中核とする国際準則である。

 とりわけ、子どもの権利条約28条は教育への権利、同29条は教育の目的について明確に定めており、特に29条の教育の目的については、子どもの権利委員会が2001年1月25日に、いわゆる一般的意見(ジェネラル・コメント)を採択して、その意味を具体的に解き明かしている。従って、これらの国際的な基準に沿うことが、グローバル化の進行する国際社会において、日本が真の尊敬を得ることのできる姿勢だと言える。

 いずれにしても、改正前教育基本法の問題を検討する際の指標となるものは、他ならぬ憲法と子どもの権利条約などの国際準則であり、この二つの指標に照らすとき、看過できない問題が存しており、以下では4点に絞って指摘する。


 3、教育目的を有為な国民の育成とする憲法違反の改正教育基本法

  その第一は、国家が教育目的として「新しい時代を切り拓くたくましい日本人」の育成を掲げその観点から教育基本法の理念や原則を「見直し」(中教審)、その結果「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた国民の育成を期」すことを教育目的に据えること(改正法1条)が、憲法や子どもの権利条約の立場から問題とはならないのかということである。

  憲法26条は「教育を受ける権利」を保障しているが、国家が教育に関して規範的な枠組みを作るにあたっては、二つの立場がある。憲法の保障する教育を、国家との関係において目的論的に、憲法学者の奥平康弘教授の言葉を借りれば、コンセクウェンシャリスト的(帰結主義的、効果主義的)な立場で捉えるか、それとも、ノン・コンセクウェンシャリスト的な立場、つまりは教育をそれ自体として個人人格本位で捉えるのか、ということである。

 前者の目的論的な立場は、教育をそれ自体としてではなく、何か他の目的を達成するための手段、もう少しあからさまに言えば、教育を目的達成のための道具として捉える考え方であるから、国家的観点、国家目標などから教育を捉え、「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた国民を育成する」ことは、教育を目的論的に捉えていることになる。

 これに対して、後者のノン・コンセクウェンシャリスト的な立場は、教育をそれ自体として、教育を受ける権利を有している人本位に捉え、人間の自立や人格的発展に向けて捉えようとする考え方であり、教育をあくまでも一人ひとりの人間の自己形成を支え育むものとして捉えてゆこうとするものである。憲法が前者ではなく後者の立場で教育を捉えていることは、個人の尊厳の保障に憲法の究極の価値をおいていること(13条)からも明らかであり、憲法学説の多くが現在とっている基本的な立場でもある。最高裁が旭川学力テスト事件判決において、「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入…は憲法26条、13条の規定上からも許されない」と判示して、「子どもの自由かつ独立の人格」と機軸に据えていることの中にも、教育を受ける権利の主体である子ども本位への方向を看取することができる。

 教育をこのように、一人ひとりの人間の自己形成を支え育むものとして捉えてゆこうとする立場は、ひとり憲法だけがとっているわけではない。子どもの権利条約29条は、教育の目的として、子どもが自己の「能力をその可能性の最大限度まで発達させる」ことや、「自由な社会における責任ある生活のために…準備する」ことを権利として保障している。子どもの権利委員会は、その意味について、先に述べた〈一般的意見〉の中で、「この条文は、子ども中心の教育というメッセージを強調している」としたうえで、「教育を、子ども中心の、子どもにやさしいもの」にするとともに、「教育の全般的目的は、自由な社会に全面的にかつ責任をもって参加するための子どもの能力及び機会を最大限に増進することにある」と強調し、国際的に承認される教育が「子どもにライフスキルを与え…人間としての尊厳、自尊感情および自信を発達させることにより、子どもをエンパワーすることにある」として子ども本位の教育観を明確に採っている。

 しかし、「国民の育成」を教育目的として設定することは、教育を個人人格のためではなく国家のために営むことを意味しており、教育を目的論的にとらえ、国家目的の道具に貶めようとすることにほかならないので、憲法や子どもの権利条約などの国際準則が採っている個人人格本位主義とでもいうべき立場に反し、これと相容れないことは明らかである。

 4、教育目標の法定と〈政府言論〉としての「国を愛する」態度の求めは、思想・良心の自由の保障に反し、違憲である。

  二つめは、教育目標として、「伝統と文化を尊重し」「我が国と郷土を愛する」態度を養うなどの「徳目」を法定すること(改正法2条)には、憲法や子どもの権利条約などの国際準則から見て、どのような問題があるのかという点である。

 法案2条に示された教育目標は、改正法5条・6条2項に基づく学校教育、家庭教育に関する10条、社会教育に関する12条や学校・家庭及び地域住民等の相互の連携協力に関する13条にも及ぶとされているので、「全部改正」法が全体として教育を通しての「国民精神統制法」の色彩を帯びるものとなっていることは否定できない。

 いずれにしても、ここには、公教育制度とりわけ義務教育制度を用いて、国家が「送り手」として、いわゆる政府言論(government speech)を、「受け手」である子どもに送り届けようとする強い意思の顕れを見て取ることができる。「受け手」である子どもは、学校という閉鎖空間の下では、憲法学上の「囚われの聴衆」(captive audience)として位置づけられているので、「教育とは、「囚われの聴衆」に宛てたgovernment speechに対し、政府が冠した美称である」とさえいわれている。

 「我が国と郷土を愛する」態度を養うとの点について、まず「郷土」は、私たちの身近に存するものとして、ある種の実体的イメージを持ったものとして具体的に把握することができるのに対して、「国」は近代国民国家ではステートとして何よりも統治機構であり、権力機構として抽象的なイメージしか持ち得ない、かなり観念的な存在である。二つは質的に異なっており、同列には並べられないはずである。私たちの実感においても、郷土を愛することと、国を愛することとの間には大きな隔たりがあり、郷土を愛し郷土に親近感を持つことが、すぐさま国に同様な気持ちを抱くことへとつながらないことは、日常的にも経験していることである。それにもかかわらず、二つを同列に並べて、愛する(態度を養う)対象とすることは、結局、郷土への自然な感情をもって、政治的共同体としての国に対する同様の感情の惹起を擬制しようとするものである。そうした擬制は、かつてナチス・ドイツが、国民の愛国心を高揚させる目的で、「郷土愛」(heimat liebe)の教育を組織的に行ったという歴史を想起させずにはおかない事柄である。

 いずれにしても、「郷土や国を愛する心」とりわけ「国を愛する心」を公教育の場で強調することは、何よりも思想・良心の自由の保障を第一義的に重視している憲法の立場に抵触する。そもそも人が個として国家との間でどのような距離・スタンスをとるかは、その人の根元的な生存の姿勢に深くかかわっており、個人人格の核をなすものとして自由に選択できることができるはずである。国家は個人の内面的価値のありように関心を持たないし持ってもいけないという近代国民国家の基本原理は、近代憲法典の多くが良心の自由の保障条項を真っ先に掲げている点に端的に表れている。

 本来教育には人間の精神に働きかけて価値の注入を行おうとする面があることは否定できない。それが公教育として子どもに対して行われる場合、子どもはその場からの離脱が事実上困難である「囚われの存在」であって、価値注入を拒むことができないことに留意すべきである。「国を愛する」態度を養うことを公教育の場において求めること、そのような特定の価値・観念や精神態様を公教育において子どもに対して一方的に ― 唯一選択が可能なものとして ― 押し付けることは、憲法19条の良心の自由を侵すことになることは明らかである。思想・良心の自由の保障が、思想・良心を自由に形成することをも含むものであることも憲法学の通説となっており、「成長のどの段階においての、国家による特定の観念の強制は、個人の人権に対する侵害そのものである」といわれている。

 5、「国を愛する態度」を養うことを教育目標とすることは、子どもの権利条約・最高裁旭川学力テスト判決に反する。

 また、改正教育基本法が、中教審のように「国を愛する心」ではなく「態度」と変えたとしても、「態度を養うこと」を公教育の場で求めるならば、結局はある種の外形的な「態度」を公定することになり、そうした目に見えるかたちでの「態度」がとられたかどうかをチェックして、その到達度(教育目標から見た)を評価することは避けられなくなる。そこで子どもは「踏み絵」を踏む「態度」をとるか否かの〈態度決定〉を文字通り迫られ、自ら選び取った「態度」が厳しい評価にさらされることを覚悟しなければならない場面に直面することもある。逆に、日本社会に根強く残っている同調圧力の下で、子どもたちの世界にうわべだけの「虚偽の愛国心」が横行するという、滑稽で皮肉な事態が現出しないとは言えない。いずれにしても、子どもの「態度」への評価・介入を通して、子どもの「心」への介入が実現されることになる。最高裁が旭川学力テスト事件大法廷判決において、「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことは許されない」し、「教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的であることが要請される」と厳しく釘を刺し戒めていることを、もう一度思い起こすべきである。

 また、子どもの権利条約29条1項⒞は、「子ども自身の文化的同一性、言語及び価値の尊重、子どもの居住国及び出身国の国民的価値の尊重並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること」を教育の目的として特にあげている。先の〈一般的意見〉によれば、この規定は、「教育が広範な価値観を指向して行われること」を求めており、いわゆる「多文化共生教育」を公教育において実施することを要請しているとされている。この「多文化共生教育」を公教育において日本に住むすべての子どもに対して行いながら、他方で、ことさらに特定の「国を愛する」態度を子どもに求めるならば、子どもたちの内心に新たな緊張・葛藤や内的矛盾を感じさせ、子どもたちの集団にいわれのない疎外や排除、差別などを引き起こすことになるおそれがある。「国を愛する」態度を養うことを教育目標に据えることは、子どもの権利条約の規定からも同条約違反であるとの厳しい批判にさらされるのである。

 6、改正教育基本法16条の憲法違反

 改正教育基本法16条は、改正前教育基本法(以下「改正前」という)10条1項の「教育は、不当な支配に服することなく」という文言だけは残したが、それに続く「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」との文言は削除し、代わって「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべき」と規定した。また、改正前10条2項を全文削除し、「教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適切に行われなければならない」と新しく規定(16条1項後段)し、国に対しては、「教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し実施」する義務を課した(16条2項)。そのうえで、17条を新設し、政府には「教育の振興に関する施策についての」「基本的な計画」を定める権限を付与し、地方公共団体には「地域の実情に応じ」た教育振興基本計画を定めるよう「努める」義務を課している。
 
 しかし、改正前10条の教育の直接責任と教育行政の条件整備義務の原則は、戦前の教育に対する反省に基づいて定められたものであり、教育がときの国家権力の政治的な意思に左右されずに、自主的・自律的に行われることを保障するうえで重要な役割を果たしてきた。従って、この二つの原則を削除したうえで、教育が「法律の定めるところにより行われるべき」とすることは、「不当な支配に服することなく」という文言を残したとしても、改正前法10条の立法趣旨を根本から否定することになる。

 すなわち、教育は「不当な支配に服することなく」「法律の定めるところにより行われるべき」とすることは、法律に根拠がある限り、教育行政による教育内容への過度な介入も適法化されて、「不当な支配」に該当しないことになるおそれがある。他方、法律に定められたもの以外、たとえば、教師や子ども、保護者、地域の人々の意見などは、「不当な支配」として排除され、これら現場の声を教育に反映させることができなくなるおそれが生じる。こうして、残された「不当な支配に服することなく」という文言は、法規範として全く逆の意味を持つことになる。

 旭川学力テスト事件最高裁大法廷判決は、教育が「本来人間の内面的価値に関する文化的な営み」であり、「教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請される」として、国家の教育内容への介入に対して身長に歯止めを課したうえ、改正前10条について、「教育行政の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立に置き…教育の自主性尊重の見地から、これに対する「不当な支配」となることのないようにすべき旨の限定を付したところにその意味があり、したがって、教育に対する行政権力の不当、不要の介入は排除されるべきである」として、教育行政も「不当な支配」の主体となりうると判示している。

 改正前10条2項の規定をあえて削除したうえ、国に教育に関する施策の策定権限を付与するのは、教育行政の役割を「条件整備」を超えて教育内容の決定にまで拡大させ、教育の自主性・自律性を奪うことを正面から認めることを意味する。

 また、17条1項は、政府に対して教育振興基本計画の策定と国会への報告、公表を義務づけているが、これは、16条1項の規定と相俟って、国会が教育内容の決定に深くかかわり介入してくることを正面から認めることになる。また、自治体の教育振興計画の策定も、その主体が教育委員会ではなく、自治体当局とされているので、首長部局による政治主導の計画策定となるおそれがある。

 このように、改正前10を解体し、16条と17条に組み換えることは、ときの政治権力が教育内容を統制し教育現場の自主性・自律性を剥奪するための法的整備であると言うより他ないことになる。これにより、教育基本法は、教育の自主性保障法から教育の権力統制法へと、180度転換させられたことになる。

 7、以上のように、改正教育基本法は憲法違反である(甲第1、2号証)。
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by kyokihoinmypocket | 2008-10-29 22:47 | 訴状

訴状・2

第3、やらせによる違法なタウンミーティングにより世論を誘導して成立した違法・違憲の改正教育基本法。

 1、以下のとおり、改正教育基本法は、違法なタウンミーティングにより世論を誘導して成立した違法・違憲の法律である。

  ① 小泉内閣時代に計174回開かれた政府主催のタウンミーティング(TM)を調べていた政府のTM調査委員会(委員長・林芳正内閣府副大臣)は2006年12月13日、最終報告書をまとめた。事前に質問内容まで指定して発言を依頼する「やらせ」質問15回に加え、一般参加者を装った発言依頼が29回、国が自治体に「動員」を依頼したケース71回が新たに判明した。安倍首相は自らに対する「処分」として、報酬約100万円を国庫に返納する意向を表明した。

  ② 首相は2006年12月13日夜、首相官邸で記者団に「首相の俸給3ヶ月分を国庫に返納したい。当時の官房長官としての私の責任の取り方だ」と語った。首相の報酬は月約234万円だが、財政再建のために3割を自主返納している。さらに議員としての報酬分約130万円は受け取るため、今回の返上は3か月分で計約100万円となる。

 首相自らが不祥事のけじめとして報酬を返納するのは極めて異例。14日にも幹部ら関係者の処分を行う方針で、塩崎官房長官や伊吹文部科学相ら関係閣僚も返納する方向で調整している。

 報告書は「やらせ」について「政府の方針を浸透させるための『世論誘導』ではないかとの疑念を払拭できない」と明記した。

  ③ 「やらせ」質問などが判明した政府主催のタウンミーティング(TM)問題で、政府は2006年12月15日、国家公務員法や各府省内規に基づき、内閣府、文部科学省、法務省の職員ら計26人の処分を決めた。内閣府は、内田俊一事務次官を訓告、谷口隆司TM担当室長を戒告とするなど16人を処分すると発表した。TM室は16日付で廃止される。内田次官は処分に加え、給与10%を1ヶ月分(約13万円)国庫に自主返納する。文科省は銭谷真美初等中等教育局長ら8人、法務省も2人の処分を決めたが、国土交通省は「処分するのは酷」(冬柴国交相)と見送った。

 内閣府は、内田次官、谷口室長のほか、勝野堅介・賞勲局長(元担当室長)、長谷川秀司・担当室参事官、田辺靖夫・大臣官房付(元担当室参事官)の3人が訓告、土肥原洋、竹沢正明、両担当室次長、西達男国民生活局長(元担当室次長)、松田敏明大臣官房審議官(同)、福富光彦会計課長が厳重注意。山本信一郎官房長は訓告。中藤泉、成田一郎・両元担当室次長、大森雅夫元会計課長、音瀬均元担当室参事官ら現在他省庁にいる職員は厳重注意を所属官庁に依頼した。

 文科省は教育改革TM分について、質問案の作成にあたった教育再生会議担当の内閣参事官白間竜一郎・前広報室長を訓告。「活発な議論が行われるように」などと「やらせ」を示唆した銭谷氏、「やらせ」を了承していた布村幸彦官房審議官も訓告となった。また、白間前広報室長の後任だった高橋道和生涯学習推進課長のほか4人を文書厳重注意に、玉井日出夫官房長を口頭厳重注意とした。

 法務省は司法制度改革TMの指揮に当たった当時の刑事局長、大林宏事務次官と、当時の官房長、小津博司刑事局長をそれぞれ厳重注意処分とした。

④ 「やらせ」質問の内訳は、司法制度改革6回、教育改革5回、地域再生1回など。国の要請による自治体などの「動員」71回のうち、39回は「応募状況をみて途中から参加依頼」したケース。そのうち2回は、動員した職員に旅費を支払っていた。

 一方、内容までは指定しない事前の発言依頼は105回に及び、このうち81回は一般参加者にわかる形で司会者が紹介していた。25回65人に謝礼金5千円を支払っていたが、「やらせ」依頼で謝礼金を払った事例はなかったという。

 塩崎官房長官は司会者が紹介して口火を切ってもらうケースについては「問題ない」としていたが、報告書は「この場合にも、進行の仕方次第では公正さが失われるケースも考えられる」と指摘。今後はパネリストなどを除く事前の発言依頼を「厳に慎むべきだ」と明記した。

⑤ 「抽選工作」も違法であることが判明した。2005年11月の「文化力親子TM イン 京都」では「指名されなくても大声を発したことのある人物とその関係者が応募している」との事前情報を受け、該当者の応募受付番号の末尾の数字を操作して、落選するように仕向けていた。主催者側にとって都合の悪い参加者を恣意的に排除したもので、報告書は「決して認められるものではない」と指摘している。

⑥ TM運営を請け負った電通、朝日広告社との契約では、会場での送迎4万円やエレベーターから控室までの誘導で2万9千円などを「一般常識からは理解しがたい単価の設定」と認定。精算業務のチェックを「極めて脆弱」と指摘した。

  ⑦ 以上のように、本件タウンミーティングは、内閣総理大臣自身がその違法性を認め責任を取っているほどの、違法性の大なるものである。
このようなタウンミーティングで世論を誘導して成立した改正教育基本法は、違法、違憲であることはいうまでもない(甲第3~5号証)。


第4、違憲立法審査権の性格と司法権の概念

 1、最高裁1952年10月8日警察予備違憲訴訟判決。

 憲法81条で最高裁に認められた違憲審査権は、具体的事件性、争訟性を前提にして、司法権に付随して行使される司法裁判所型のものであるとする。

 2、違憲立法審査権の性格を最高裁判所自体が判断・明示することの不当性。

 憲法41条により、国会で判断すべきである。最高裁が、違憲立法審査権の性質を判断すれば、具体的事件を離れて抽象的審査を可能とする憲法裁判所型のものという判断にならないことは明らかである。なぜなら、憲法裁判所型になれば、最高裁の事務量が非常に多くなるから(上記判文中に最高裁自体が名言する)、そのようなことを最高裁自体が認めるはずがない。
そもそも、違憲立法審査権の性質及び最高裁の性格がどのようなものであるかを最高裁自身が決するということが、日本国の全機構上可能かということである。

 これは、国権の三権分立の問題を超えた問題であり、そのため、憲法41条が、そのような場合のため、国会を国権の最高機関と定めて、国会が三権の最上位に位置すると規定しているのである。

 従って、国会の議決により、違憲立法審査権の性質を決めるべきであり、最高裁の判決で決めても無効であるべきである。

 3、最高裁判決自体の手続違反

 なお、上記判決は、最高裁に直接訴を提起した上記訴に対し、判決文中で、「かかる訴訟については、最高裁のみならず如何なる下級裁判所も裁判権を有しない。この故に、本訴訟はこれを下級裁判所に移送すべきものではない。」と判示し、不適法却下とした(甲第6号証)。しかし、争訟性を前提とすると最高裁自体が判示するのであれば、下級裁判所に移送し、具体的な事件としての主張を待って、裁判所として判断すべきであり、この点からも最高裁としては、判文とその行動が一致していない。不適法却下した点においても上記裁判は不当であり、無効である。

 4、憲法81条は、最高裁判所に対して、司法裁判所としての性格と憲法裁判所としての性格をともに直接認めている、と解すべきである。

⑴ 第二次大戦後制定された各国の憲法の多くは、違憲立法審査に関する特別の規定を憲法中に明示している。例えば、
㈠ 憲法院を定めるもの―イタリア共和国憲法(134条~137条)
          フランス第五共和国憲法(56条~63条)
㈡ 憲法裁判所を定めるもの―ドイツ共和国基本法(93条、94条)
              大韓民国憲法(111条~113条)

  ⑵ 具体的な事件との関係なく、抽象的に法律が憲法違反か否かを裁判できるとする憲法裁判所や憲法院は市民にとって、主権の実現の手段として裁判を行使しようとする場合、非常に有利な規定である。
第二次世界大戦前の国民の抑圧に懲りた国において、戦後憲法裁判所や憲法院が定められたのはもっともな理由があるわけである。

  ⑶ 問題は、日本国憲法81条が、憲法裁判所を定めた規定か、それとも通常の事件の解決の中で、法律等の憲法違反を言えるに過ぎない規定がという点である。

  ⑷ そこで、まず憲法81条に対する学説を概観する。

 『 憲法81条が、最高裁判所に対して憲法裁判所としての性格を認めているか否かの問題については、次の3つの見解に分けることができる。

 第1説は、憲法81条は、最高裁判所に対して、司法裁判所としての性格と憲法裁判所としての性格をともに直接認めていると解する見解であり、警察予備隊訴訟の原告の主張するところであった。その理由づけとしてあげられているのは、①憲法前文第1段後半、98条1項、76条1項、76条3項から、「憲法及び法律の二種の法が相抵触するならば、下位の法である法律を無効とし、上位の法である憲法を適用するのは当然である」ので、最高裁判所、下級裁判所を問わず裁判所は、司法権の行使にあたって必要とされる限度で違憲立法審査権を有することは、憲法81条によらないでも導き出されること、②憲法81条が司法権一般の規定として第6章の「司法」の冒頭におかれず、終わりの1条として設けられ、かつその規定の中で76条と異なり最高裁判所のみを挙示したことは、憲法裁判所としての任務を最高裁判所に託したものであることである。

 第2説は、最高裁判所の本来的任務が司法裁判所の任務であることを前提にしながら、最高裁判所は、憲法裁判所的任務も手続法の制定によって行使できるとする見解である。第2説にあっても、「国家行為の純粋合憲性の審査決定権」たる「憲法裁判」権を憲法81条が規定していると解する説(佐々木惣一)と、憲法81条は最高裁判所の「司法裁判所としての本質」を定めているが、「必要最小限度の、一般的、抽象的違憲審査権を認める」ことによって、「ある程度、憲法裁判所的性格を附加的に認める」ことは憲法81条に違反しないと解する説(入江俊郎)とでは、前説が第1説に近く、後説が第3説に近いという意味でニュアンスの違いはあるが、いずれにしろ、最高裁判所に憲法裁判所的性格を立法によって付加しうると解する点で共通している。

 第3説は、憲法81条はアメリカ合衆国の判例が形成した司法裁判所型の違憲審査制を明文化したと解する見解で、学説の通説である。第3説が理由としてあげているのは、①憲法81条が「司法」の章におかれており、憲法81条により裁判所が違憲審査権を有するのも、憲法76条で「司法権」を裁判所の任務としたことを前提にしていること、②憲法の解釈の争いそのものを一般的・抽象的に裁判するという「憲法裁判」の制度を認めるためには、「憲法裁判」の作用は通常の伝統的な司法権の作用と異なるものであるから、裁判手続、提訴権者、違憲判決の効力などについて、憲法自身が明文で規定していなければならないこと、日本国憲法の権力分立や国民主権の原理に適合しないこと、④憲法81条はアメリカ合衆国の違憲審査制を継受したものであるということである。

 最高裁判決は、原告の主張した第1説を明確に否定しているが、第2説、第3説のいずれの立場をとっているか必ずしも明らかではない。』(「憲法裁判50年」悠々社、中村・常本著、20頁~21頁)。

⑸ 次に、最高裁判例について、見ていくことにする。

 ① 事件の概要
     
 現在の自衛隊の前身である警察予備隊は、昭和25年6月に朝鮮戦争が始まり、在日米軍を朝鮮戦線に投入することにより生ずる空白を補強するために、連合軍最高司令官マッカーサーが、昭和25年7月8日に吉田茂首相宛書簡で国家警察予備隊(7万5000人)の創設と海上保安庁の拡充(8000人の増員)を指令し、同年8月10日の政令260号によって警察予備隊令が制定されることによって設置されたものである(升味準之輔『戦後政治1945-55年(下)』東大出版会(1977年)362-363頁)。警察予備隊の創設から1年半余りの後、左派社会党は、警察予備隊の合憲性を裁判所で争うことを決め、昭和27年3月15日、鈴木茂三郎委員長を原告として、昭和26年4月1日以降、被告である国がなした警察予備隊の設置維持に関する一切の行為(警察予備隊機構の設置、隊員の募集、宿舎の敷地の買収、官舎の建設、隊員への武器の賦与など)が憲法9条に違反して無効であることの確認を求める訴えを直接最高裁判所に提起したのである。原告の主張は、憲法81条は最高裁判所に司法裁判所の性格のほかに憲法裁判所の性格を与えており、憲法裁判所としての性格を与えた以上、違憲法令処分の効力を直接争いうるとするのは理の当然で、審理裁判についての細かな手続については最高裁判所が自ら憲法77条によって規則を定立すれば足り、その規則が未だ制定されていないというのは枝葉末節であるということであった(前同書18頁)。
  
 ② 判決の概要

 最高裁昭和27年10月8日大法廷判決(民集6巻9号783頁)は、第1に、憲法81条が最高裁判所に司法裁判所の性格のほかに憲法裁判所としての性格を認めているか否か、第2に、司法裁判所が司法権の範囲内で違憲審査権を行使する場合に、事件性・争訟性を要件としているか否かの2点について判断している。

 本判決の中心的部分は、以下の判示である。

 「わが裁判所が現行の制度上与えられているのは司法権を行う権限であり、そして司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要とする。わが裁判所は具体的な争訟事件が提起されないのに将来を予想して憲法及びその他の法律命令等の解釈に対し存在する疑義論争に関し抽象的な判断を下すごとき権限を行い得るものではない。けだし最高裁判所は法律命令等に関し違憲審査権を有するが、この権限は司法権の範囲内において行使されるものであり、この点においては最高裁判所と下級裁判所との間に異なるところはないのである(憲法76条1項参照)。原告は憲法81条を以て主張の根拠とするが、同条は最高裁判所が憲法に関する事件について終審的性格を有することを規定したものであり、従って最高裁判所が固有の権限として抽象的な意味の違憲審査権を有すること並びにそれがこの種の事件について排他的すなわち第一審にして終審としての裁判権を有するものと推論することを得ない」。

 そして、最高裁が抽象的違憲審査権をもたないとする理由としてあげているのは、法律命令等の抽象的な無効宣言をなす権限を有するとするならば、①法律命令等の効力を争うことが頻発すること、②「最高裁判所はすべて国権の上に位する機関たる観を呈し三権独立し、その間に均衡を保ち、相互に侵さざる民主政治の根本原理に背馳するにいたる恐れ」があるという2点である(前同書19頁)。

   ③ この判決は最高裁が発足して間もない戦後の時期に示された判断であり、異議の言い方を知らない当時の日本人としては表立った異議を言わなかっただけで、この判決を日本国民として承服しているわけではないと思われる。

 判決内容は、論理学にいう典型的なタウトロジー(同語反復)の判決で、内容的には、なぜ最高裁が憲法裁判所ではないのか、という理由を全く述べておらず、最高裁は司法裁判所であるから、司法裁判所なのだということを繰り返しているだけでのタウトロジーである。

 発足間もない最高裁だとしても、このような無内容の恥ずかしい判断をしていては、最高裁の将来が危ぶまれる内容の判決である。

 最高裁判決の内容は、日本国民はもとより、世界に通用するものでなければならない。
このタウトロジーの判決は、世界はおろか、日本国内においても通用しないもので、先例としての価値は全く無い。日本国憲法上、憲法裁判所の規定の有無に関しては、未だ、裁判所の判断は無い、としなければならない。
 
 なお、裁判所のいう憲法裁判所と規定したものであれば事件が頻発し過ぎるという点についても、それなら憲法裁判所であることを明記している諸外国の場合はどうなるのかということのほか、憲法自身が憲法裁判所であると規定し、事件の頻発を予想しているのであれば、最高裁のこの理由は理由にならない。

 また、憲法裁判所であると憲法が規定していれば、最高裁が国権のすべての上に位する機関になることになり不当であるという理由も、諸外国に憲法裁判所の規定があること、憲法自体が、そのような最高裁の性格を容認していることから、この点も理由にならないといわなければならない。

 最高裁が国権のすべての上に位する機関になるといっても、それは、法律が違憲であるという拒否的な面についてだけである。そして、それを憲法が認めているか否かが争点なのである。最高裁の言う理由が、理由にならないことは明らかである。

 以上、要するに、昭和27年10月8日の最高裁判決は理由にならない理由を理由とするもので、本来判決として不存在である。それだけでなく、以下述べるように判決自身、矛盾の判断をしている。

 最高裁判決は、「従って、本訴訟は不適法であって、かかる訴訟については、最高裁判所のみならず、如何なる下級裁判所も裁判権を有しない。この故に本訴訟はこれを下級裁判所に移送すべきものでもない。以上の理由により、本訴訟は不適法として却下すべく訴訟費用の負担につき民訴89条を適用し、主文のとおり判決する。」とする。

 しかし、最高裁判決によれば、憲法裁判所ではない通常裁判所の最高裁へいきなり訴が提起された場合に過ぎないのであるから、民事訴訟法16条により、管轄裁判所である地方裁判所へ移送すべきである。

 それをしないで、最高裁で終局裁判をしたことは、最高裁が憲法裁判所ではないと判断したことと矛盾するといわなければならない。

 最高裁のいう違憲立法審査権は、通常の事件を前提とし、その事件解決の中で、違憲の判断がされるのであるとすると、本件は管轄違いの判断又は移送の判断で終わるべき事件で、最高裁が憲法裁判所では無いという内容の判断をすべき事件ではない。そうすると本最高裁判決は、いわゆる蛇足の判決で、井上薫氏の指摘する「司法のしゃべりすぎ」(「司法のしゃべりすぎ」新潮新書、井上薫著)の例である。

 その点からも、この判決は無効であるといわなければならない。

 何よりも、主権者は、最高裁の判決がなされたということで黙ってしまうことなく、最高裁判決の中にはこのようなタウトロジーの無効判決もあるということを十分に検討し、無効な判決には無効な対応をしくことが、真の主権者としての誠実な態度であるといわなければならない。

 日本は判例法主義を取っていない。それで、本件昭和27年10月8日最高裁大法廷判決(民集6-9-783)が判例として以後の裁判を拘束することはない。

 しかし、本件つまり左派社会党の鈴木茂三郎を原告とする警察予備隊令が憲法違反であるという事件は確定している。最高裁の本件判決は、本件限りであるとはいえ、違法な判決が確定していることになる。

 民事裁判においても、刑事裁判と同様、判決の法令違反を理由とする非常救済手続である非常上告(刑事訴訟法454条)が必要である。

 最高裁といえども、本件に限らず法令違反の裁判が少なからずある。民訴法に非常上告の規定が無いのは法の不備である。

 5、以上のことから、1952年10月8日の最高裁判決は無効である。

  1952年10月8日最高裁判決は無効であり、違憲立法審査権及び最高裁の性格に対する正当な判決は無い。

 日本国において、違憲立法審査権及び最高裁の性格を決しようとするのであれば、憲法41条に基づき国会決議で決しなければならない。国会決議が無い以上、最高裁は、憲法裁判所としての性格を有するとして裁判をすべきである。そうすると、本件改正教育基本法の違憲性を判断すべきである。
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by kyokihoinmypocket | 2008-10-29 22:46 | 訴状