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by kyokihoinmypocket

準備書面(2)

平成19年(ワ)第24676号 国等に対する損害賠償請求事件

被 告  国 外5名   

準 備 書 面(2)

2007年11月9日

東京地方裁判所民事第24部合議C係 御中

民事訴訟法243条の尊重

要請事項

裁判所による真実究明義務と当事者への平等取り扱い義務の履行

本件の第一回口頭弁論に向けて、原告らは、裁判官らに対し、民事訴訟法243条「裁判所は、訴訟が裁判をするのに熟したときは、終局判決をする」の尊重を求める。

本件において、原告は教育基本法の改定事項がいくつもの憲法違反を犯しており、また、やらせタウンミーティングによる改定教育基本法の成立過程は国家犯罪であるなど、重大な問題を提起している。

国会議員である被告らは、主権者であり納税者である原告らの訴え及び問題提起に対し、誠実に答弁あるいは反論する義務があるのであり、裁判官は、判決を下すためには、裁判をするのに熟すまで待たなければならないし、熟すことを妨げる事由がある場合には、妨げる事由を取り除き、裁判を熟させるべく衡平に訴訟を導くことが義務であると考える。

以下に、その義務がある事由を述べる。もし、以下の解釈が間違っているのであれば、本法廷において、原告の解釈が間違っていることを指摘していただきたい。

一、裁判所による民訴法243条の取扱いの客観的基準とは

民訴法243条は、1項で、裁判所は訴訟が裁判をするのに熟したときは、終局裁判をする、と規定している。

主語が、「裁判所は」となっているので、裁判所が熟したと判断すれば、いつでも終局裁判ができるかのような錯覚が生じる。しかし、そうではない。客観的に「熟した」時が必要なのである。
しかも、客観的に訴訟が熟したといえるためには、次のような前提条件を裁判所がクリアーしていることが必要である。

1、裁判所による真実究明義務の全う

⑴ 訴訟が客観的にみて「熟した」といえるためには、裁判所が真実究明義務を全うしたことが必要である。
⑵ 現行行政事件訴訟法(以下「行訴法」という)では、民事訴訟を支配する弁論主義を基調としている。
「行訴法には職権証拠調べの規定(24条)はあるが、弁論主義の下では、せいぜい釈明権行使の端緒を与えるにすぎず、また、民訴法による文書送付嘱託や文書提出命令も、いきおい微温的なものにとどまらざるを得ない。

このような行政訴訟における主張・立証の困難性が、訴訟の提起をためらわせ、訴訟の追行を困難にするとともに、裁判の遅延を招いていることは、間違いないところである。」(「紛争の行政解決手法」南博方著、有斐閣、62~63頁)といわれているのである。

それどころか、このような行政訴訟における原告側の不利を逆手に取って、現実には、「裁判の遅延」よりも、極度の門前払い裁判が横行しているのである。

⑶ 「諸外国においては、訴えの提起と同時に原処分関係一件記録を裁判所へ送付させ(ドイツ財政裁判法71条2項)、裁判所の釈明義務を明定し(ドイツ行政裁判法86条3項)、関係人の主張及び証拠の申出に拘束されることなく職権による証拠調べができるものとし(同法同条1項)、あるいは、文書提出命令の根拠を定めて(同法99条1項)、当事者間の不衡平の平準化を図るとともに、形式的真実発見に甘んずることなく、できるだけ実体的真実発見の理想に近接することを目指しているのである。」(前同63頁)とされている。

⑷ 日本の遅れた行訴法では、諸外国で当然の事とされている裁判所による、⒜原処分関係一件書類の送付要求、⒝裁判所の釈明義務、⒞職権による証拠調べ、⒟文書提出命令、⒠当事者間の不衡平の平準化、⒡形式的真実発見に甘んずることなく、実体的真実発見を究明するための規定が無い。

しかし、⒜ないし⒡は、行政訴訟が裁判であるための当然の規定であり、憲法で裁判を受ける権利を保障(憲法32条)された国民は、当然に享受すべきである。

⑸ 従って、裁判所が真実究明義務を全うしていない限り、訴訟が客観的にみて「熟した」とはいえないのである。

2、裁判所による当事者の平等取扱義務の履行

⑴ 日本の行政法には、前記第1の⑷の⒠の、当事者間の不衡平の平準化のための規定が無い。しかし、裁判である以上、当事者間が衡平であることは当然のことであり、憲法上も平等原則が保障されている(憲法14条)のである。

⑵ 従って、裁判所は、訴訟指揮権の行使により、不衡平の平準化を図り、適切な釈明等により、当事者の不衡平を平準化する義務がある。これをせずに訴訟が「熟した」とはいえないのである。まして、不衡平により、行政機関側が何もしないことをよいことに、結審をして門前払い判決をするということは、当事者の平等取扱い義務の不履行で、未だ訴訟が「熟した」といえず、結審すること自体、審理不尽となるのである。

3、裁判所の説明責任の履行

⑴ 裁判官も国民の厳粛な信託により(憲法前文)、国民に選出された公務員(憲法15条1項)として、国民の納得のいく裁判をする義務がある。

⑵ 国民の納得を得る方法の一つが、説明責任を尽くすことである。

⑶ 訴訟が熟したか否かとの関係で、説明責任が問題となる場面が二つ考えられる。

㈠ 一つは、当事者の申請した証拠調べを全て終了し、主張の追加も無く、何人が見ても客観的にみて、訴訟が「熟した」といえる場合である。
この場合、裁判所に訴訟が「熟した」か否かについて説明責任が発生することは無いといってよいであろう。

㈡ 二つ目は、ところが、裁判所が実体的真実発見の義務を怠り、当事者間の不衡平の平準化をする義務も放棄して、いわゆる門前払いの判決をしようとして結審する場合の訴訟が「熟した」か否かについて、説明責任が発生する場合である。
この場合、裁判所は、なぜ実体的真実発見をしなくてもよいのか、なぜ当事者間の不衡平の平準化の努力をしなくてもよいのかについて、当事者を納得させる説明責任が生ずることはいうまでもない。
この場合、説明責任を履行したが、当事者の納得が得られない場合は、訴訟を続行して実体的真実発見の究明と、当事者間の不衡平の平準化を図った訴訟指揮による裁判をする以外にない。

⑷ 説明責任が生じたのに、全く説明責任を履行しない場合や、説明責任を履行したが当事者の納得が得られないのにその後の努力をしない場合は、裁判官自体が忌避されることを受忍していると理解する以外に無い。裁判官が当該裁判をすること自体を放棄したと見做されても仕方が無いのである。

4、結論

以上のように、民訴法243条は、裁判の本質と密接に関連した深遠な内容を含んだ含蓄のある規定であると理解しなければならないのである。よって、本件の担当裁判官は、民訴法243条が求めている裁判をするために、真実究明と当事者の平等取扱いの義務を全うしなければならない。

二、民訴法243条を尊重した本件裁判における終結のあり方と、訴訟指揮

前述してきたように、裁判官は、民訴法243条が規定する裁判をするために、真実究明と当事者の平等取扱いの義務を全うしなければならない。原告らは、本件裁判官が民訴法243条が規定する裁判を行うならば、原告らが提起する問題について、被告の釈明・反論なしに、本件が終結することはあり得ないと、信ずるものである。

また、原告らは、別途書面にて証人喚問の申請及び被告らが所持する「やらせタウンミーティング」で謝礼を支払った者の名簿や、やらせ質問を依頼する書面などの証拠保全の申立てをしている。さらに、被告側に当事者照会による証拠開示の要請をしている。

これらについても、裁判官らが、当事者の平等取扱いの義務を履行し、証人喚問・証拠保全・証拠開示を促し真実究明の道を拓く方向に指揮することを期待し、要請するものである。

また、真実究明を全うし衡平な終結を迎えるために、原告らは、裁判官が、原告らの求める争点について被告らが誠実に答えるよう訴訟指揮を執ることを求める。原告らが争点にしていないことを尋ねるのは構わないが、必ず原告らが問題にしていることにも、被告らが答えるよう指揮することを失念しないでいただきたいと要請する。
 
三、民訴法243条が規定する裁判が行われない場合
 
本来、一、二に述べてきたことは、裁判官であれば当然心得ていることであるが、本件の原告らの中には、行政裁判を経験してきた者もおり、時に、裁判官による真実究明努力のないまま、あるいは当事者の平等取扱いを受けぬまま終結とされてきた経験をもつ者が少なくない。

例えば、原告らの中には、杉並区での「つくる会」教科書採択の取消しをめぐって、前総理大臣・安倍晋三を訴えた裁判と杉並区と杉並区長を訴えた住民訴訟の二つの裁判の原告が存在するが、それらの裁判において、いずれも原告らの納得のいかない終結を経験している。原告らはこれらの裁判の裁判官らについて裁判官忌避申立を行い、現在、最高裁での審理が進行中である。
 
本件の場合も、民訴法243条の規定に反した裁判が進行していると認められた場合、原告らは、裁判官らの訴訟指揮は、民訴法24条にいう裁判の公正を妨げる事情に該当すると判断し、裁判官忌避申立に踏み切ることを躊躇しないものである。

結語

以上の背景には、原告らが裁判を経験してきた中でもたざるを得なかった裁判官への不信がある。

民訴法243条にいう「裁判の熟したとき」とは、「裁判官のみの判断で認める、熟したとき」ではなく、「裁判官はもとより当事者双方が認める、熟したとき」である。現状の行政訴訟では、原告らが「熟していない」と判断しているにも関わらず、裁判官と行政側のみが「裁判が熟した」と判断し終局を宣言するケースがあまりにも多い。このような終局は、あからさまな原告らの訴えの無化であり、明らかに憲法32条 「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」に違反する。

また、証拠開示制度が存在しないことが、行政訴訟における衡平を実現する上で著しい問題である以上、終局宣言時には公正な審理が行われたことが誰の目にも明らかでなければならない。

そのために裁判官は、証拠開示に積極的に取り組み、当事者間の衡平につとめ、真実究明の姿勢を示さなければならない。証拠開示に消極的で、当事者間の衡平につとめず、真実究明の姿勢に乏しい裁判官は、実質的に裁判を受ける権利を原告から奪うものであり、このような裁判官は、忌避を免れないことは明白である。

原告らは、裁判官らに対し、とくに原告らを優遇してくれと頼んでいるわけではない。憲法76条3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」に定められた裁判官の姿を、主権者に示してほしいと願うものである。
原告は、本件裁判官が民訴法243条にいう裁判を行うならば、原告が提起する諸問題(争点)について、行政側の釈明・反論なしに、真実究明はなく、それゆえ本件が終結することはあり得ないと、信ずるものである。原告は、日本国憲法を拠りどころとする司法には、何人の目にも明らかな公正さをつかさどり、真実を究明する力があると信ずるものである。本件を担当する裁判官に良識と良心が残っていることを期待し、結びとする。

以上
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# by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:50 | 第1審(東京地裁)の記録

準備書面(3)

平成19年(ワ)第24676号 国等に対する損害賠償請求事件

被 告  国 外5名

準 備 書 面(3)

2007年11月9日

東京地方裁判所民事第24部合議C係 御中

 
2006年「改正」教育基本法の違憲性について


1.最高裁判所は抽象的憲法判断をなしうる憲法裁判所としての性格も持っていることの確認

裁判官の方々にまず確認したいこと、要求したいことがあります。

日本の裁判は判例法主義に基づかないので過去の最高裁判決に必要以上に縛られることはありませんが、まず、抽象的憲法判断に基づく違憲立法審査権を裁判所が積極的に行使しない一因である1952年10月8日の「警察予備隊訴訟判決」の無効を確認します。わたしは現行制度で裁判所は抽象的憲法判断をすることができると考えます。裁判所が違憲立法審査権を用いなければ、行政府・立法府の暴走に誰も歯止めをかけられません。そして安倍政権の下で、正に数々の強行採決が行われ、憲法違反の疑いのある法律が成立したのでした。
  
上記判決は、最高裁判所は司法裁判所としての性格のみを持つことを、「司法裁判所だから司法裁判所なのだ」という同語反復の論法によって定義づけしており、説得力を欠いています(訴状20-23頁)。また、最高裁自身が最高裁の性格を定義づけられるのかという問題も残ります。最高裁が司法裁判所なのか憲法裁判所なのか、それとも双方の性格を併せ持つのかという判断は、その点に疑義がある限り当事者・最高裁は定めることができません。むしろ主権者である国民が決めなくてはなりません(憲法前文)。具体的には、最高裁の位置づけを一つの争点として国政選挙を行い、その際選ばれた国会議員によって、国権の最高決議機関である国会(憲法41条)において決議されるべきです。そして最高裁の性格付けは下級審全てにおいても当てはまることは言うまでもありません。

具体的争訟性を要求する司法裁判所型の米国でも、「訴えの利益」を広く認めていこうという傾向、抽象的な違憲審査に近いような機能も見られます。逆に抽象的な憲法判断をするべく設置された憲法裁判所を持つドイツにおいては、憲法裁判所における八割から九割が「憲法訴額/憲法異議」の事件であり、個人の権利侵害を前提にする違憲審査となっています。つまり私権保障か憲法保障かという二類型の間は世界的には縮まっており、「合一化」傾向にあるのです【甲13号証 芦部信喜『憲法判例を読む』15-18頁。甲14号証 伊藤真『伊藤真の憲法入門』202-206頁】。

憲法裁判所を持たない日本において、抽象的憲法判断の典型例である違憲立法審査権が行使しにくい状況・憲法を使いこなせない状況は、民主主義にとり危機的な状況・主権者の権利が制約させられている状況です。どうか憲法81条にのっとり違憲立法審査権を行使してください。また、上記判決は、最高裁の事務能力の許容量を超える提訴の数が予想されることも抽象的憲法判断を行わない理由として述べています(訴状21頁)。裁判官の数量不足に関しては同情に値しますし、別の形で主権者がその問題について取り組まなくてはなりません。しかしそれは裁判所が憲法を遵守しないことの理由にはなりません。

このことから、損害請求額が10円という安価なものである意味が分かります。裁判所が自らを司法裁判所的性格のみ強調して定義することに対して、わたしたち主権者はやむをえない「非常手段」として具体的賠償を掲げているのです。ですから、この10円には象徴的な意味が込められています。「早く、抽象的憲法判断をしてほしい」という要求と、「わたしたちが受けた損害・国家的損失はお金などでは到底現すことができない巨大なものである」という主張です。決して「10円程度の被害ならば提訴すべきでない」などと安易に判断されるべき類の問題ではないのです。

日本国憲法の解釈としては司法消極主義を採る学説が有力です。確かに民主主義の過程で立法府の誤りが矯正されることが期待される場合はそれでも構いません。しかし、精神的自由の規制の合憲性を審査する際は、司法積極主義が適切です。民主主義の過程そのものを危うくするような規制については、裁判所は積極的に介入して回復すべきなのです【甲15号証 伊藤真前掲書208-210頁】。なぜなら、裁判所だけに違憲立法審査権が主権者から委託されているからです。47年版教育基本法から06年版への改訂は、後述するように、まさにこの主権者の精神的自由の規制に関わることがらです。

2.「改正」教育基本法の違憲性の確認

次に被告らの行為の違憲性について申し上げます。わたしは特に、47年版と06年版両教育基本法の比較を通して、後者の違憲性を立証します。

2006年に改訂された教育基本法は、日本国憲法との不整合がはなはだしいものです。憲法価値を認めていないために、この法律は内容面において違憲です。この点において、人権思想や立憲民主主義といった普遍的価値に関して、憲法と完全に合致していた準憲法たる1947年教育基本法と内容を異にします。

たとえば、47年版教基法が前文において憲法との一体性を明記していたにもかかわらず、その文言を削除しました(「日本国憲法…の理想の実現は、根本において教育の力にまつ」)。また「個人の尊厳を重んじ」という憲法13条と呼応している文言を、それ以降の文言を変えることによって、その意義を薄めています。06年版では、「個人の尊厳」は後続の「真理と正義の希求」、「公共の精神の尊重」と並列の関係に成り下がっています。ここで、公共の精神の尊重と、伝統の継承とが付加されていることは重要です。総じて、06年版は、国家のための個人という考え方を強調しています。この改訂が復古調を帯びていること、すなわち明治憲法・教育勅語体制、すなわち天皇制軍国主義国家体制を指向していることは明らかです。

憲法26条にあるように、全ての個人に無条件に教育を受ける権利があるはずなのに、06年版は国家権力に有為な人格を形成するための教育を指向しています(06年版1条)。教育の目的において、「自主的な精神」を削除し、「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた…国民の育成」と付加改訂されていることが、それを示します。個人よりも国家という強調点のずらしが見て取れます。

憲法19・20条は個人の人権の核として、良心・思想・信条の自由を謳っています。これらの内心の自由の保障は、明治憲法下での天皇制軍国主義国家による思想統制への反省として、明治憲法下でその保障が不十分であった人権を明記するために定められた条文です。ところがこの歴史的経緯と内心の自由の重要性を無視して、06年教基法は第2条5項で「わが国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度」をはじめ、多くの態度を養うことを目標として新設し(「真理を求める態度」「勤労を重んずる態度」「社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度」「環境の保全に寄与する態度」)、ある特定の価値観を主権者に強制しようとしています。被告らは日本国憲法の立法趣旨を踏みにじっています。

旭川学力テスト最高裁判決にわたしは賛同します。「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば一方的な観念を子どもに植え付けるような内容の教育を施すことは許されない」(訴状11頁)。まさに、06年版教基法に基づいて国家的介入による不当な支配、その結果の「愛国心植え付け」が行われることは、子どもたちへの人権侵害です。

さらなる憲法違反ないしは立憲主義に対する冒涜は06年版16条です。47年版10条は、国家権力による介入を主権者の権利として防ぐための規定でした。準憲法であるからこそ、国家権力の暴走に歯止めをかける道具としての決まりが47年版には明記されていたのです(立憲主義)。ところが06年版は教育行政が、主権者への責任を軽視して何でも行えるという趣旨の規定になっています。同じ文言である「教育は、不当な支配に服することなく」を用いながら、それ以降を改訂することによって、本来の立法趣旨と全く反対の帰結を巧妙に導いていることが分かります。すなわち、「この法及び他の法律の定めるところにより行われる」が加えられた結果、47年版10条の意図が逆転して、「教育は教育行政が支配する」ことになってしまったのです。被告らによる同種の手法は、前文の「個人の尊厳を重んじ」以降の改訂においても確認されています。

3.被告らの憲法破壊行為の確認

憲法99条により国会議員である被告らには憲法を遵守する義務があります。にもかかわらず、上述のような内容面における違憲性が明らかな法律をそれと知りながら強引に成立させたことは、被告らの立憲主義軽視に基づく違憲行為です。この法律の成立によって、原告のみならず日本に住む者たちは金員では現せないほどの大きな損害を被りました。「立法府において多数を占めていれば違憲立法をしても良い」という誤った指針を、悪しき前例として大々的に宣伝したのです。立憲民主主義が冒涜されました。

日本の戦後教育は戦後すぐから右傾化が始まり【甲16号証 海後勝雄ほか『戦後教育の功罪』6-24、73―90、213―246頁】、時代が進むにつれて47年版教育基本法の精神からますます離れていき、47年版は骨抜きにされた状況となっていました。文科省や政府が教育の荒廃は47年版、ひいては日本国憲法のせいであると主張していましたが、これは全く逆で、47年版が骨抜きにされるにつれて教育の荒廃が進んできたのです【甲17号証 高嶋伸欣ほか『教育基本法「改正」のここが問題】。47年版がかろうじて持っていた最後の歯止めをなくした結果、06年版に基づく教育3法がすでに成立しています。これからの教育はますます反民主的な方向に進んでいくことになるでしょう。個の尊重を基礎にする人権教育の普及は、ただでさえ諸外国の中で遅れているのに、被告らの違憲行為によりさらに遅れることは明らかです。

わたしは憲法51条に定められた国会議員の院内における「免責特権」を、本訴が侵しているとは考えません。免責特権は、たとえば地元選挙民の利益などに縛られずに、国民全体の益となる発言を国会議員が自由にできるようにするための規定です。つまり国全体の益とならないことをした国会議員の場合には免責特権は適用されません。上述のように、被告らは国家的損失を引き起こしたのですから、免責されません。また、基本的人権の侵害を行う場合にも免責特権が適用されないことは定説となっています(訴状30-31頁)。上述のように、被告らは人権侵害を公教育において、公教育によって行ってよいという法律を成立させたのですから、免責されません。ましてや、憲法違反の行為を(憲法13条・19条・20条・26条などに抵触)、同じ憲法(憲法51条)が認めることは到底ありえないのです(憲法99条)。

以上論じてきたように、被告らの悪質な立憲民主主義の冒涜と、違憲立法による人権侵害行為については、抽象的な違憲判断と共に具体的付随的な賠償責任も問うことができると立証されました。加えて、英米における「懲罰的損害論」(訴状32頁)による同種の犯罪への予防有効性をも、本訴では考え合わせています。それゆえにわたしは被告らに、違憲立法の損害賠償として1,600,000円及び、245名の原告各人への10円を請求いたします。

以上
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# by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:47 | 第1審(東京地裁)の記録

準備書面(4)

平成19年(ワ)第24676号 国等に対する損害賠償請求事件

被 告  国 外5名

準 備 書 面(4)


2007年11月9日

東京地方裁判所民事第24部合議C係 御中
               
まず損害賠償額について

以下に述べるように、教育基本法改変で子どもたちの心と体を国家が管理し、私たち自身の尊厳と平和で自由な生活も危ぶまれる、という私たちが受ける損害は甚大で、とても億・万の金額で償われるものではありません。しかし、高い訴訟費用の負担に耐えられないので賠償請求額を10円という金額にせざるを得ませんでした。被告議員や裁判官は私たちの税金を豊かに受け勤務時間として訴訟に臨むのに対して、生活時間と生活費を削ってしか主権者としての裁判を受ける権利を行使できない原告の立場を理解してください。

教育は国家行政の支配下で行われるように改変された

47年基本法10条「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行なわれるべき。」が改変基本法16条では「不当な支配に服することなく、この法律ならびに他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は国と地方公共団体とが分担して公正かつ適正に行われる。」とされました。

従来法の“行政が教育に介入することを禁じ、学校と教育職員が直接に国民全体に責任を負って教育を行う”という教育のあり方を改変基本法では“教育は行政の定める法律にしたがって公正かつ適性に行われるべきで、行政の教育を批判するような不当な支配に服するな”と逆転させてしまっています。「公正かつ適正に」は、“従わない者は処罰する”という意味を含み、人々に服従を強いる行政の専門用語として使われてきています。つまり“教育を支配するのは行政であり、これに服従しない教職員は処分する”と改変されました。

改変基本法がめざす教育目的

47年基本法の目的が「真理と平和を希求する人間の育成、個人の価値を尊び、普遍的かつ個性ゆたかな文化をめざす教育の実現」であるのに対し改変基本法では「公共の精神を尊び、この国を愛し伝統を継承し、社会の形成者として必要な資質を備え、わが国の未来を拓く人材の育成をめざす」とあります。

従来法のキーワード『普遍的教育』とは“一国・一民族だけでなく全人類の平和のために50年、100年先でも通用する教育”です。ところが改変法ではこの『普遍的』を削除し“現在の政権の国家繁栄に都合いい人材の育成”つまり『普遍』でなく“日本だけ現在の政権だけ”に利する教育をめざす内容に変えられました。改変法の法文は従来法の法文に上手に似せてありますが、内容は、日本国憲法と国連子どもの権利条約が規定する人権尊重や民主主義に逆行し、現政府が人々を私物化して扱い易い人材に改造するための極悪法といわざるを得ません。

改変基本法の各条文で特に気になる内容

一、前文、1、2条では、国家を愛し進んで犠牲的奉仕をする国民育成のために
*個人の人格尊重に優先して、公共の精神を重視する態度を養う。
*日本の伝統文化が他国より立派で優れていると教え、だから愛国心は当然と教え込み、愛国的態度を養う。
*自律の精神と個人の尊厳を養い(自己責任)、規律を守り豊かな情操と道徳心を培う。 
などが強調されています。

一、2条では子どもに特定の「態度」をもつことを強制しています。
2条には「態度を養う」の文言が4度も繰り返し使われています。これは、「個人の尊重、思想・良心の自由、表現の自由」を規定した憲法13,19,21条と、国連子どもの権利条約12,13,14,15,16,29条とに違反しています。これでは“従順を態度で示せ”“踏み絵をしっかり踏めるように”という態度の強制になってしまいます。

一、4条には「能力に応じた教育を受ける機会を与えなければならない」とあります。子どもの能力にランクを付け、できる子とできない子を区別して教育する、つまり従来の「教育の機会均等」が改変され、能力別の格差教育を推進するようになりました。

さらに従来法の「義務教育を9年間とする」条項も、「男女共学」の条項も削除されました。『能力の低い子を9年も教育する必要はない。男女の格差は当然あるべき。』という考え方です。

一、改変基本法の10条には「子どもの教育の第一義的責任は家庭にある」と書かれました。つまり、競争のストレスや子どもの落ちこぼれは家庭の自己責任である、行政の責任では無い、だから家庭教育を頑張りなさい、とされています。

一、13条には「学校、家庭、地域住民は連携・協力して教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚すべき」とあり、競争格差教育の中でも子どもたちが抵抗せず秩序を守るように地域の住民同士で監視しあうことの必要が書かれています。

むすび

改変基本法が施行されて1年、すでに“個人より国家のための教育”が始まっています。学力テスト・体力テストが実施され、子どもたちは能力でランク付けられ、態度を見張られ評価されチェックされる環境にさらされています。能力が低いとされた子は落ちこぼされ、抵抗すれば非行として“適正に”処罰される、それが怖いからビクビクしながら子どもは“うわべの服従”や“あきらめの服従”を身に着け始めているでしょう。教育委員会・文科省そして公安の監視と管理が怖くて先生方の多くも苦境にあります。上意下達の教員管理の監視下にある先生から、子どもたちは将来への希望を学べるでしょうか。

最悪なのは教育効果によって服従が体質となってしまうことです。自分独自の意見など存在せず、服従に喜びを感じ、進んで将軍様に奉仕し、将軍様の喜びが自らの誇りとなる、命令ならば殺人も略奪もする、特攻隊として一人でも多くの敵を殺すために命をかけることを美しい犠牲と思うようになる、自分の命は国のためにあり国に奉仕して死ぬことが最も正しいと信じるようになってしまうことです。監視や管理・処分されないように黙って我慢と服従を繰り返しているうちに、国民の大半がマインドコントロールされてしまい、魂のない単なる働きアリや兵隊アリ・生殖アリに改造されてしまった悲劇の歴史を繰り返すことになりかねません。

まさか、大袈裟な、と言わないでほしい。改変教育基本法の手本とされた教育勅語で育成されたかつての日本人は、実際この通りだったではないですか。戦争を批判する親を非国民として公安警察に密告した子どもたちがいたのは歴史の事実です。「立派に死んで来い」と、日の丸の旗を振って万歳バンザイとわが子や家族や近所の人々を侵略戦争に送り出したのが、つい60、70年前の私たちなのです。愛すべき日本の勝利のためと教育によって信じさせられて、虐殺も略奪も破壊も平気でやらかしたのが今80歳以上の多くの日本人なのです。これが“国際平和・国際秩序・日本の指導的役割”を口実にした国策教育の結果だったことを、しっかり見据えなければなりません。

自分の子や孫が、格差を自己責任とあきらめ、上に立つ人の命令に無批判に服従するロボットのように育成される教育の改変を、大被害・大損害だと申し立てているのがこの裁判です。個人の人格・個人の尊厳・一人ひとりの命の大切さより、公共の精神や“国のために死ぬこと”を優先させる<改変教育基本法>を制定するよう策定した議員たちに、この国の将来を誤らせる重罪に対する懲罰としての賠償責任と、私たちの尊厳や魂の自由、子や孫・仲間との穏やかな心の交流を奪われることの個人的損害の賠償とを請求せざるを得ないのです。

まだ具体的被害は被っていないから損害申し立ての資格がない、などと言わないで下さい。もはや命令服従ロボット育成の教育は始まっています。お金をかけて育成する指導的人材育成コースと、その他一般下積み庶民コースとに分ける格差教育は着々と進められています。

テストと評価で競争に負けていく子どもたちは“従順なだけが取り柄の使い捨て低賃金労働者や使い捨て兵隊用として最低限の教育だけ施せばよい”と政府の教育諮問委員会の偉い人々がそう明言しています。

文科省・行政・教育委員会の上意下達の命令系統も、不服従を許さない監視・管理システムもすでに確立しています。人材育成教育に批判的な教員は見せしめとして日々監視・脅迫され、処分・排除され続けています。すでに多くの学校で、校長も教員も教育委員会の管理・監視に萎縮して、子どもたちに心をかけるゆとりが無くなっています。子どもたちの心の荒廃による非行には警察力・少年法の厳罰主義で対処するという体勢も整いました。

私の子・孫はまだ完璧なロボットにはされていない、まだ殺されてはいないから、損害賠償の申し立ての資格が無い、などと言わないで下さい。すでに“お国のための管理教育、精神支配教育、格差教育”で傷つきはじめています。魂のない完璧なロボットに改造されてしまってから、あるいは殺されてしまってからでは手遅れなのです。のど首にナイフをあてられていても、まだ殺されてはいないから被害はない、だから裁けない、などと言わないで下さい。

被告も裁判所も暖かい血の流れている普通の人間の立場で考えてください。「一人ひとりの命を大切に平和に文化的に生きること」、をめざす教育基本法を廃止して逆に、「国家の利益のために死ぬこと」、をよしとする教育基本法で子どもたちが育てられることの計り知れない害悪を実感してください。主権在民・人権尊重の憲法原則と、子どもの人格を尊重する国連子どもの権利条約の規定に厳格に則って審判されるようお願いします。

以上
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# by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:45 | 第1審(東京地裁)の記録

趣意書・2

趣意書・1の続き

7、主権の実現方法としての裁判闘争における裁判のやり方

 ⑴ 主権を実現する方法としての裁判闘争という視点から、従来一般的にされてきた法廷での裁判のやり方を見直し、新たな裁判のやり方を創造する必要があると思います。

⑵ 従来の裁判を一応振り返っておきます。

 ① 裁判官を必要以上に崇め奉る。関係者は、裁判官の心証を害しないよう細心の注意をし、へりくだる。

 ② 諸外国の10分の1の裁判官数で、手抜きの裁判をするため、法律にある口頭弁論主義も「陳述します」と言えば、何十ページもの訴状、準備書面も、口頭でその内容をすべて述べたことになる。そのため裁判傍聴人は、傍聴してもどんな裁判か全く解らない。

 ③ 訴訟が裁判をするに熟したと判断するか否かは、裁判所の専権に属するとして、安易に結審をして、門前払い判決をする。

 ④ 裁判所は、原告・被告の証拠収集に対する力の不衡平を平準化するための釈明等の訴訟指揮をしない。

 ⑤ 裁判は形式的真実発見ではなく、実態的な真実発見のための制度であることを理解せず、実体的真実発見の究明をしようとしない。

 ⑥ 弁護士は、主権者との関係では、裁判官に次ぐ第2の権威者であり、裁判の一翼を担う者として、裁判所に取り込まれ、裁判官の下請け的な役割で、裁判官としてはやりづらい非民主的な面を(例えば、素人は発言すべきではない、心証を害するな、静かにせよ等)依頼者、傍聴人に命令する。いわば軍隊でいえば下士官である(上官が裁判官)。

  弁護士を、主権者よりは一段上、裁判官よりは一段下に位置させることが、当局による巧妙な主権者の分断作戦であることに気付かなければなりません。このことにいかに早く気付くかが、裁判闘争の基本です。

 ⑦ 傍聴人は全く静かに、行儀良く、裁判の進行を静視する役割だけが与えられていて、主権者としての意思表示(例えば拍手)をすることも許されない。足を組んで座ることさえ許されない。

⑶ しかし、裁判は、裁判官だけがするものではありません。
裁判官の最も重要な役割は、法廷を、自由で何でも言える雰囲気にして、原告・被告に、主張、立証を十分にさせて、それがかみ合うようにして、自ら、争点及び立証の程度が浮かび上がるようにすることです。

法廷を堅苦しい雰囲気にして、言いたいことも言えなくすることではありません。裁判官は当事者の言い足りないところを見つけて、それを引き出すように工夫すること、当事者の主張、立証がかみ合うよう交通整理をすることがその役割です。

そうすれば、自ら、争点、立証が明らかとなり、予断に満ちた権力者寄りの一方的な判決にはならないはずです。主張上も、証拠上も、また裁判進行上、訴訟指揮上も、裁判官に不当判決を書かせない態勢を、原告、傍聴人、さらには広く主権者、弁護士が協力して作り上げるのです。
裁判官に、判決は主権者全体で作り上げるものだと実感させる必要があります。

⑷ 裁判は、形式的真実の追及だけではなく、実体的真実の追及が当然の前提です。そのためには、原告・被告間に、証拠資料の収集に関する力の衡平がなければなりません。力の衡平は、裁判所の釈明権の行使等でなされるものです。

裁判所に、当事者の衡平と、実態的真実の発見の任務があることを、機会のある度に要求していく必要があります。

⑸ 弁護士の役割は、裁判所の下請、下士官に堕することなく、徹頭徹尾依頼者の側に立って、裁判官を監視し、牽制すること、依頼者の言い分を裁判官が理解できるような文書にして提出し、立証することです。

法律家としての弁護士には、主権の実現方法としての裁判闘争においては限界がある場合があります。常識的な法律家としては、やれることに限界があるのです。愛媛では、そのため、わざと一部を本人訴訟、残りを弁護士依頼の訴訟として、本人訴訟で自由奔放にする面と、法律的に裁判官を牽制する面との両立を図っています。

本人訴訟で自由奔放にする面に対し、相手方弁護士の異議や裁判官からの制約が入った場合に、それに対して弁護士は法律家として闘うのです。このように、これまでにはない創造的な裁判闘争をして、弁護士と原告本人との任務分担をして、主権実現を図るのです。

⑹ 書類等も、傍聴人に解ってもらう必要のあるもの、裁判官によく理解させておく必要があるものは、全文を本人訴訟の本人らが説明・朗読します。

⑺ 本人訴訟の原告は、裁判所の訴訟指揮に対し、主権者は市民であるという観点から注文をし、異議を言います。

 また、準備書面等の内容の説明や全文朗読を要求し、実現していきます。
毎回、その法廷での裁判長の訴訟指揮に対する異議の準備書面、口頭弁論調書に対する異議申立等、これまでの裁判闘争には無い闘争方法をとる必要があります。
書面も、本人訴訟の原告が書くことによって、これまでの裁判のカラクリが良く解ります。本人訴訟の原告の中には、今では、「裁判が趣味」であると言い出す人さえ出てきています。

⑻ 裁判傍聴人の権利も重要です。
裁判傍聴人の権利は、主権者の、信託を受けた公務員たる裁判官等が、裁判を公明正大、適正に行っているかどうかについて、裁判を監視する権利です。裁判官は独立が保障され(憲78条)、法律及び良心に従うことだけ(憲76条3項)で上司の統制等を受けません。

そこで主権者は裁判を監視し、公明正大、適正な裁判をしていない場合は、裁判官弾劾裁判所の訴追委員会へ裁判官の弾劾を訴追できる(裁判官弾劾法15条)のです。

 ① 傍聴人の権利についてはこれまで突き詰めて考えられたことがありません。
そのため、現状は、裁判所から、静かに行儀良く黙って見たり聴いたりする限度で許可されているのです。いわば、恩恵的措置を受けているのが現状です。

 ② しかし、傍聴権は、主権者が裁判を監視する裁判監視権がその本質です。
主権者には、裁判が、公明正大、適正に行われているか監視する権利があり、これが裁判傍聴権なのです。公文書公開請求権などとその根底を共通にする主権者としての権利です。

 ③ 裁判監視権としての傍聴人の権利は以下のようなものです。裁判監視権者としての傍聴人は、監視権に当然に伴う意思表示をすることが出来なければなりません。

  ㋐ 裁判中に拍手をすること等の意思表示をすることは当然出来るといわなければなりません。
  ㋑ 遺影を持っての傍聴も当然出来ます。
  ㋒ 裁判開始前に、関係者の肖像権を侵害しない法廷の撮影も当然可能です。
  ㋓ 裁判官(長)の声が小さ過ぎる場合は、聞こえるように要求することが出来ます。
  ㋔ 為政者は、裁判を聴覚だけを利用する方法に限定して、主権者の裁判利用を困難にしています。

裁判は江戸時代、明治時代の延長としての聴覚だけを利用する方法で、スクリーン等の映像、法廷と外部をインターネットで接続する等、 ITの視覚の利用等を一切していません。このような時代不相応の方法は、裁判を、公明正大、適正にしているとはいえません。傍聴人、当事者は、時代に相応した公明正大で適正手続に従った映像、IT等の視覚を利用すべきことを裁判所に要求できなければなりません。

 ④ 問題は、傍聴人が当事者に書面を説明あるいは朗読するよう要求する権利があるかどうかです。

  ㋐ 日本の裁判では、裁判官数がヨーロッパのいわゆる先進国の10分の1の人数でしているため、極めて手抜きの裁判がされています。

  ㋑ 同じような資本主義の経済体制で、同じような紛争があるはずであるのに、諸外国の10分の1の人数の裁判官で、出来るはずがありません。為政者は、主権者の裁判の利用を出来るだけしにくくしているのです。

  ㋒ そのような、適正手続違反の為政者による裁判統制に従う必要はありません。当然に説明、朗読を傍聴者の裁判監視権に基づいて要求できなければなりません。

  ㋓ 傍聴人は、裁判監視権に基づいて裁判を傍聴するので、原・被告どちらの側に対しても書類の説明・朗読を要求し、裁判所にそれを求めることができなければなりません。

 ⑤ 裁判所が手抜き裁判をして十分な時間を取らないため、当事者が書類の説明・朗読の時間が無いときは、公明正大性違反、適正手続違反の裁判になります。傍聴人は裁判監視権に基づいて裁判所に、十分な時間を取った裁判を要求できます。この点は、当事者も、もちろん出来ます。

 ⑥ 傍聴権の本質は裁判監視権なので、現実に裁判を傍聴していない裁判当事者も、傍聴者の立場に立った意見を代弁することが出来ます。

 ⑦ 今後、傍聴人の裁判監視権の内容を深めることが、そして、裁判当事者と傍聴人の連携が主権の実現としての裁判闘争には不可欠になります。

⑼ 何よりも、日本で現在行われていることは、世界的基準で見ると、相当遅れているということを自覚しなければなりません。法律の雑誌でも、「遅れている日本の人権感覚」(「国民の憲法意識―日本とアメリカ―」藤田泰弘、判例タイムズ№1225、76頁)が当たり前に言われているのは情けないことです。

それでも為政者は市民の人権意識の向上、裁判闘争をおそれて「人権だけを食べ過ぎれば日本社会は人権メタボリック症候群になる」(伊吹文科学相の長崎における自民党大会での発言)(2007年2月27日、朝日新聞社説)という市民が人権に目覚め、裁判に関心を寄せることに対する牽制を常にしています。

8、以上のような主権の実現としての裁判闘争を全国的に展開する予定です。

以上
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# by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:45 | 趣意書

趣意書・1

趣 意 書

2007.3.12
「えひめ教科書裁判を支える会」
「杉並の不当な教科書採択取り消し裁判の会」

教育基本法改悪違憲、地元選出国会議員に対する損害賠償訴訟
― 教基法は改悪された、されど、どっこい、主権者は健在だ! ―


第1、新たな訴訟

この度、改悪された教基法は、違憲で無効であることの訴訟及び改悪教基法の成立に賛成した国会議員について、各地から、地元選出国会議員に対し、損害賠償訴訟を提起しようとしています。先例の全く無い訴訟で、理論上も非常に困難な訴訟ですが、衆知を集めて克服し、裁判にこぎつけようとしています。

この度の訴訟は主権の実現として、必ず、行わなければならない訴訟です。そもそも日本では、主権実現方法として裁判闘争をするという考え方がありません。しかし、選挙権の行使と裁判による牽制は一体となったものです。それを別々のものだとわれわれは洗脳されています。これを機会に、主権実現の多様性を取り戻さなければならないのです。今回がその良い先例になるようにしようと思っています。

違憲・違法な法律を作っても、簡単には市民はあきらめない。また、憲法や教育基本法の制定によって、植民地等の支配責任等に代えるという措置を受けた深刻な利害を有する近隣諸国の市民もこれを許さないだろう。人民が国境を越えて連帯し、主権者である意地を見せる必要があります。違憲立法は、主権の侵害の第一ラウンドに過ぎず、最終ラウンドでは無いことを実証するのです。

第2、主権実現方法としての裁判闘争

1、主権の行使方法

日本において、主権者としての主権の実現方法としては、㈠選挙権の行使による間接民主制、㈡選挙権を行使して選んだ国会議員が、憲法、法律の規定を裏切った場合の裁判で牽制することによる主権の実現、㈢ビラ、デモ、座り込み、文書、インターネット等による直接民主主義的主権の行使があります。

2、マインドコントロール

ところが、為政者は、主権の行使方法を㈠の選挙権の行使に限り、(その上、利権のからみがあって正当に選挙権を行使しないこと、小選挙区制等の不当選挙、日本国籍のない定住者の選挙権を認めないこと、個別訪問の禁止、ビラの数等の制限、既成政党の優遇等の選挙方法の制限、地域による一票の格差等、選挙権の行使を非常に制限的に規制し、真の主権の実現を困難にしている)、㈡の裁判闘争は、容易に諸国民が連帯して行使することが出来るので、その連帯を阻止しようとして、裁判が主権の実現のための制度ではないとし、裁判は「紛争の解決」であることを強調して、主権の実現とは切り離し、㈢の直接民主主義的主権行使の手段については、表現の自由の問題、思想、信条の自由の問題として(当然にそのような自由の問題ではあるが)、本質的には主権の実現方法であることを隠蔽する種々のマインドコントロールをかけられ、われわれは、このマインドコントロールに支配され、主権の実現を妨げられてきました。

3、主権実現の方法としての裁判(特に行政裁判)闘争

  ⑴ 本来、選挙権を行使して、国会議員等を選出するだけでは、主権を本当に行使したとはいえません。
選出された国会議員等が憲法を尊重擁護せず(憲法99条)、違憲の法律を作ったり、その他法律の規定を無視し、国政を信託された者として、その信託に反する行為をしたとき、われわれ主権者としては、国会議員を牽制し、本来の職務を全うしてもらう必要があります。そのため裁判は必要不可欠です。
つまり、選挙権の行使という主権の行使をフォローする方法が当然必要です。そのフォローの仕方が裁判なのです。選挙権の行使と、行使した結果生まれた国会議員が期待を裏切り信託関係を壊した場合に、牽制の裁判をすることとは、本来、一体となったものです。そのどちらが欠けても十分な主権の行使といえないのです。さらにいえば、日本では牽制の裁判を欠いているので、選挙権の行使だけでは意味が無いと思う人が多く、選挙の投票率が落ちているのです。

  ⑵ このように選挙権の行使と、その後の牽制の裁判は、主権の実現としては本来一体となっているものです。
ところが、為政者がわれわれにマインドコントロールをかけて、選挙権の行使は、選挙権の行使だけ、裁判は「紛争の解決」の問題で、デモ等は表現の自由の問題であるとして、それぞれ分断され、主権の実現とは別物とされています。これまでわれわれ主権者は、このマインドコントロールにうまくひっかかってきてしまったのです。

⑶ このようなマインドコントロールから、まず、われわれは解放されなければなりません。


4、主権者が裁判に目覚めることを恐れる為政者

  ⑴ 本来、主権者は、政府や国家に対し、自分たちが国家の主権者であり、国家の政策を決定する主体であること、国会が決め、内閣が実行した政策が違憲であったり、民意に反していた場合は、彼らはその責任を問われ、私たち主権者は、その責任を問わなければならないという主権としての当事者意識がなければなりません。そして、そのような主権の実現のためには裁判闘争が必要不可欠です。裁判は、目の前で結果が明らかになること、何度でも行使できることなど、主権の実現としてこれほど貴重なものはありません。ところが、日本の為政者は市民が主権の実現としての裁判闘争に目覚めること、さらには、近隣諸国民が植民地支配責任等を追及するため、連帯して裁判闘争をすることを極度に恐れ、種々のマインドコントロールをかけるだけではなく、特に日本では、裁判制度自体を極めて利用しにくい制度にして裁判権の行使を妨げています。

 日本の裁判制度は、世界的に見ても、異様なほど利用しにくいものになっています。逆にいえば、市民を抑圧する国ほど、裁判制度を市民が利用しにくいものにする典型例です。
そこで、日本の裁判の概要をみてみることにします。

⑵ 裁判所の国家予算(2006年度)(裁判所データーブック26頁)

   予算総額 79,686,000,000円(単位千円)
   裁判所予算   333,106,391

国の予算に対する割合      0.41パーセント
   三権分立の一翼を担う司法でありながら予算的には0.4パーセント

  ⑶ 裁判官数(同28頁)

    アメリカ 3万1574人  人口 2億94万人
    イギリス   3817人  人口 5300万人
    ドイツ  2万395人   人口 8000万人
    フランス   5645人  人口 6000万人
    日本     2535人  人口 1億2000万人
     日本  アメリカ、ドイツの10分の1~5分の1
         イギリス、フランスの3分の1~5分の1

⑷ 行政事件数(「建築紛争」五十嵐外著、岩波新書、194~195頁)

相手方の手持証拠の開示制度が無い日本では、訴訟が極めて困難であるので、極端に少ない。

           件数       人口比 日本基準に直すと
アメリカ  4万4000    2万2000件
イギリス    4247      9600件
ドイツ   51万         77万件
フランス  12万         24万件
日本      2000      2000件
(諸外国では人口比率的にみて行政裁判が選挙権のフォローの役割をもしていることが明らかである。)
(訴訟数も、日本では、人口比でドイツの数百分の1、韓国・台湾の数十分の1にとどまる。インターネット「行政訴訟のパラダイム転換」阿部泰隆 神戸大学大学院教授)

  ⑸ 情報公開

ドイツではナチスの反省から、ドイツの官僚には詳細に記録を残す義務が課せられ、それらを訴訟で提出義務がある(「よくなるドイツ、悪くなる日本」関口博之著、地湧社、3頁)。

  ⑹ 官僚裁判官だけでなく、裁判への国民の参加が一般的である。

陪審制   アメリカ、イギリス
参審制   ドイツ(プロの裁判官1人ないし3人に市民2人ないし3人)
          フランス(プロの裁判官3人に市民9人)
陪審・参審併用 スウェーデン(出版、表現の自由に関する犯罪は陪審、その他は参審)

  ⑺ 日本の民訴法等は、手持証拠の開示義務(ディスクロージャー)、懲罰的損害賠償制度を定めていません。ディスクロージャーが無いので、行政訴訟を提起した市民側が負けることは目に見えています。また懲罰的損害賠償制度が無いので、原告側に損害が無いので、その余の点を判断するまでもないという理由で、敗訴となるのです。裁判所は靖国訴訟等、まともに判断すれば国側の敗訴となる訴訟で、国側を勝たせる常套手段として、「原告側に損害が無い」という理論を用います。

  ⑻ 印紙代

    アメリカでは印紙代は一律100ドル(12,000円)程度。
    日本では訴額に応じて高騰し、100万円の訴額で印紙代1万円、1億円の訴額では32万円です。

  ⑼ クラスアクション(集団訴訟)も日本には無い。ある行為や事件から同じような被害を受けた者が多数いるとき、日本では、一部の被害者が全体を代表して訴訟を提起することを認める制度であるクラスアクションが無く、印紙代が高額になるので、集団での訴の提起が非常に困難です。

  ⑽ 映像等ITの極度の利用制限

裁判を筆記と聴覚だけに限定して、映像化せず、またインターネットで広域に瞬時に報道されることを嫌い、前近代的な方法だけに固執しています。

  ⑾ 裁判官のヒラメ化とヒラメ裁判官による門前払い訴訟の横行。

為政者は、裁判官に対する報酬、任地を恣意的に運用して、裁判官が政府や最高裁の意向を極度に気にする体質にし、そのようなヒラメ裁判官によって国や行政機関に対する重要な裁判であればあるほど門前払いの裁判をするようにしむけています。

諸外国においては、門前払いを主とする日本とは全く逆に、訴えの提起と同時に原処分関係一件書類を裁判所へ送付させ(ドイツ財政裁判法71条2項)、裁判所の釈明義務を明定し(ドイツ行政裁判法86条3項)、関係人の主張及び証拠の申出に拘束されることなく職権による証拠調べができるものとし(同法同条1項)、あるいは、文書提出命令の根拠を定めて(同法99条1項)、当事者間の不衡平の平準化を図るとともに、形式的真実発見に甘んずることなく、できるだけ実体的真実発見の理想に近接することを目指しているのです。(「紛争の行政解決手法」南博方著、有斐閣63頁)。

このように、日本と諸外国とでは、門前払いと真実発見の究明、当事者間の不衡平の是認と不衡平の平準化という雲泥の差があることを知らなければなりません。

  ⑿ 以上のように、日本では裁判をすることを非常に困難にして、市民から裁判を遠ざけています。その結果、日本では主権の実現が非常に困難になっているのです。そこで、国は豊かで世界経済ランキングの上位にありながら、市民の大半は生活に苦しんでいるのです。

5、裁判の勝ち負けをどう考えるべきか

  ⑴ 日本の裁判はヒラメ裁判官といって、政府や最高裁等、上の方ばかりを気にする裁判官がします(2004年10月19日朝日新聞)。そこで、行政事件の「国民」の側の勝訴率は異常に低くなっています。このようなヒラメ裁判官が担当し、行政機関の手持証拠を出させる手段もなく、裁判で勝訴することは例外的なことです。

判決結果による勝訴という観念を変えなければ、勝訴の可能性が無いので裁判することをあきらめ、為政者の洗脳に陥ることになります。

  ⑵ 裁判が主権の実現の方法としての手段であるなら、ここにおける敗訴とは、主権の実現の方法としてあまり有効なことが出来なかったことをいい、判決結果による裁判の勝訴、敗訴とは別に考えるべきです。愛媛の例では、教育委員会の公開の裁判を提起したところ、それまで非公開であった委員会が公開になりました。

このように、裁判の結果だけでなく、裁判の過程も裁判の効果として考える必要があります。

  ⑶ なによりも、公務員は、「国民」の信託によるものであり(憲法)、「国民」に責任をとるものです。ところが現実には、国や上司に対して責任を取り、「国民」に責任を取っていません。それが、人民から責任追及の裁判を提起されると本当に驚きます。裁判を提起することは、そのように大きな意義があるのです。

6、敗訴が「先例・判例になる」という考えにどう対処するか

  ⑴ 日本の裁判は、判例法主義ではありません。従って、同種の先例の裁判があっても、それに拘束されることはありません。実際上は参考にはされますが、それぞれの裁判で争い方、証拠の内容も異なり、全く同一の裁判というものは無いので、先例を引用して同一の結論とするという方法は判例法主義では無いのでしません。

  ⑵ 全国で裁判のある靖国裁判、住基ネット裁判等、多数の裁判があり、主権者の観点から多少は好ましい判決もありますが、決して先例、判例にはなっていないのが実状です。

  ⑶ 先例、判例になるので安易に裁判を起こすべきではないというのは、「ための理由」の側面が強く、従来の勝ち負け観に基づくマイナスの側面だけを取り上げているのではないでしょうか。

  ⑷ 「安易に起こした裁判」が後々の先例、判例になると批判がありますが、そのような提訴が中味のある裁判にはなりません。「安易な裁判が先例、判例」になるということはあり得ないことであり、自己矛盾を言っていることが明らかでしょう。

  ⑸ 敗訴は、先例、判例になるというのも、裁判を利用させないようにする為政者の人民に対する洗脳、マインドコントロールの一方法であるということに気づいて下さい。

趣意書・2に続く
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# by kyokihoinmypocket | 2008-10-31 17:45 | 趣意書